2006/06/10記


第一出版社
柯蔡阿李夫人訪問記(六)

[柯旗化 『台灣監獄島』第三版 p.237~8]

1973年10月4日は、私が逮捕されてからちょうど12年経った日であった。(註、12年の刑期満了の日)。母と妻は喜びにはやる胸を抑え、その前日に高雄からバスで台東に来て、四日の朝二人は緑島感訓監獄へ私を迎えに来た。監獄当局から私はもうここにいないと聞かされて、妻はショックで昏倒しそうになった。いったいどこにいるのかと何回も聞いた後、やっと隣の緑島指揮部の新生感訓隊に送られたことがわかった。二人は急いで指揮部に行き、私に面会したいと申し入れた。指揮部では、面会は許可できないという。
ちょうど雨が降り出した。妻は雨の中に立ち尽くして、雨に打たれながら泣いていた。指揮部の上の人が見つけて、どうしたのかと聞いた。妻は泣きながら、もし面会できなかったらここで死ぬといった。
結局、ひと目だけ合わせるが話をしてはならないという条件で、私は新生感訓隊から連れ出され、50メートルほどの距離を距てて母と妻に対面した。妻は私に、「体に気をつけて」といった。私は手を挙げて彼女に答えた。
母と妻は泣きながら帰った。台東に渡る船の上で妻は海に飛び込んで死ぬことばかりを考えていたという。精神的な打撃と船酔いで、妻は船の上で何回も吐いた。母は妻を介抱して慰め、子供たちのために元気を出すよう励ました。喜びが絶望に変わったので、妻の受けたショックは大きかった。台東から六時間泣きながらバスに揺られてクタクタになった妻は、家に帰り着くと病の床についた。

《柯蔡阿李奥様の話し》 2006.05.05

1961年10月4日 反乱罪で高雄にて再逮捕され、12年の判決を受ける。
1973年10月4日 刑期満了にもかかわらず釈放されず、引きつづき緑島指揮部の新生感訓隊に送られる。
1976年6月19日 緑島より釈放

(1973年10月4日、12年の刑期満了の日なのに)、あと三年近く、また無実の罪で、起訴もなしよ、犯罪の事実なんて全然ないですよ、起訴もしないで、判決もしないで、帰さない。日本ではあり得ないでしょうね。だからそのとき私が、12年付いたときも、判決12年だから満12年の日に迎えに行ったんですよ、姑と一緒にね。そしたら全然相手にして呉れない。お願いだから、人間がどこにいるか教えて下さい、(朝から)この午後まで待っているんだから。
「ここにおらないよ!」
「それじゃどこにおりますか。お願いですから教えて下さい。お願いですから」
そしたら、
「感訓隊の方に回されたよ」

びっくりしましたよ。姑も泣き出したんですよ。感訓隊と言ったら無期徒刑にさせられたみたい。いつ帰れるか分からない。政府の満足がいくまで、そこに閉じこめられるんです。

いそいで(感訓隊へ)面会に行きましたら、
「いけない。今日(感訓隊へ)来たばっかりだから、三月後に来い」
会わせて呉れないんですね。私が、お願いだから、高雄から来たんだし、年寄りのお母さんも来ているから、ひと目だけでも会わせて下さい。平安にあるということを確かめたいんですから」
そしたら、
「出て行け、出て行け」
怒鳴られて、仕方ないから外に出た。その日は何があったのか、そこにたくさんの人がいた。
怒鳴られて外に出て、立っていたんですよ。悲しくて、どうしていいか分からず、立っていた。
すると急にね、大雨が降り出したんです。台灣では夏、夕方頃によく夕立が来るんですよ。凄い夕立だったですよ。みんなは、ワーっ、雨だア、どこかへ逃げて行ったけど、私だけは、日傘を手にしているけど、それを差してもいいのに日傘を差すことも分からず、ぼやっとそこに立っていた。 立って雨に濡れていた。・・・・・・

指揮官がそれを見た。それを部下に聞いたんでしょう。部下は、私が、面会を拒絶されたから抗議しているんでしょうと言ったかどうか知らないけれど、一人の兵卒が出てきて、
「入れ!」
って言うから入っていったらね、
「一目だけ会わせてやる。しかし話しをしてはいけない」
と言う。ありがとうございますとお礼言って、そのときはもう大雨も止んで、太陽も沈みかかっている頃ですよ。たそがれで、小雨になっていました。
そばの有刺鉄線で巻いて垣根にしたところにしばらく立っていたら、50mくらい離れた先方に主人が連れ出されて、それで話しもしないで別れた。
――生きているだけの確認ですね?
そうそう、
私のこのストーリーは、もうみんな、聞いたら泣くんですよ。王さんという画家がこのストーリーをある新聞記者から聞いてね、とても感動してね、台灣に二度とこの柯さんの奥さんのような悲しい泣き声のないようにという心持ちで火燒島へ行って、30点もの火燒島を描いたんですよ。十何年前に台北で展覧会して、高雄でも展覧会して、それから今回の博物館(高雄市歴史博物館?)の展覧会でも、三点新しいのを描いて下さった。大きいですよ。あれ何というサイズか、もうあの三つ(と壁に掛かった三本の 額を指し)を合わせた大きさなんです。三点描いて、展覧会に寄せて下さった。

う~ん、本当にこの時は打撃が大きかったですね。12年て、そんなに短い期間じゃないですよね。12年て判決受けたときも相当に悲しかったですよ。それがようやくその期間がついたというのに今度は無期徒刑になっているんだから、誰がそれを我慢できますか? ほんとに、
――残酷ですね
そうですよ。そして何の罪も犯していないでしょう? 犯罪の事実もないのに、起訴もしないで、判決もしないで、ただ帰らせない。
台湾人てみじめですよね。この国家には人権がない。それで主人はね、台灣は自由と民主の国にならなければ、子供たちが、自分のようなこんな困難な目に合う。それではいけない。それで火燒島から帰って来たあとも人権運動で投書して、政府批判、色々な演説にも出ていました。
――恐かったでしょう?
恐いですよ! 勿論
夜なんか悪夢するくらいだから、一二回、悪夢で私を殴りつけて来たことがありました。
やっぱり人間だから恐いでしょうけど、彼は決して退縮していない。恐いからこの仕事をしない、そんな観念がない。恐くともやる。
その精神力に、私、尊敬しますね。正しいことをやるのは、台灣の自由と民主の為だから。
勿論私だって自分の安定を考えたら、そんなこと、して欲しくないですよ。でも台灣は、自由と民主の国にならなければ、台灣の人の幸福はない。やっぱり台灣のためにそんなことをするのは正しいと思い、私も止めることはできないで、ただ陰で、主人のためにお祈りしていました。

柯蔡阿李奥様


見事な書の額


柯旗化先生の母校高雄中学
日本統治時代に創建され、今も名門としての風格を持っている。美しい校舎である。

高雄中学側面に残る228での弾痕
蒋介石の兵は中学生に向けて容赦なく撃ち込んだ

=終=

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