2006/05/12記


第一出版社
柯蔡阿李夫人訪問記(一)

司馬遼太郎先生の『台湾紀行』は、私に大きな影響を与えた本でした。以前に、
“司馬先生の膨大な著作より私が二つを残すなら、「坂の上の雲」と「台湾紀行」である。ただ一つ、と云われたなら、私は「台湾紀行」を選ぶかも知れない。・・・分からない。”
と記しています(→)

何が大きな影響を与えたかといえば、戦前の日本を誉める外国人がいる、を知ったことでした。ほとんど自分の人生そのものが明るくなったのです。
しかしそれでも、台湾の方々が戦後「苦難」はあっただろうけれど、かくも悲惨な抑圧と恐怖の下にあったとは認識していませんでした。
『台湾紀行』を最初に読み終えたのは平成7年(1995)1月16日でした。
読了のメモの下に、(「兵庫県南部地震」の前日)と付記してあります。「阪神・淡路大震災」の名は、まだ付いていませんでした。
今読み返してみると司馬先生は228事件やその後の弾圧に触れ、「多くの学生や知識人が殺された。五千人とも二万人ともいわれている」と記しています(“二隻の船”の章)。
その中で、柯 旗化先生の『台湾監獄島』の紹介もしています。


今回高雄へ行ったのは屏東県林辺郷にある「阮朝日228記念館」を訪ねることが目的でした。この記念館が7月で閉鎖されると聞きました。毎月1~7日しか開館していないので、私にとって訪問するのはこの連休が唯一のチャンスでした。阮美す女史も待っていて下さるとのことでした。

ところが出発直前になって「勝美旅行社」の李清興社長よりメールが入り、柯 旗化(コア キフォア)(か きか )先生の奥様に会ってみる気はないか、というのです。可能ならば是非、ということで連絡をお願いしましたら、約束はできないが高雄に着いたら電話して下さい、とのことでした。
私は4日の夕刻に高雄に着き、まだ明るかったので愛河の周辺を散策しました。
翌日、柯旗化先生が創立し、奥様(柯蔡阿李夫人)が継いでおられる「第一出版社」に電話しました。3時半に台北大生の訪問がある、そのあと4時からでよろしければ、ということでした。


私が3時50分に「第一出版社」の表から覗きますと、柯蔡阿李夫人と思える方も私を認め、微笑みました。ところが台北大の女子学生との打ち合わせがこれから始まるということで、二階で30分ほど待って下さいと案内されました。写真集などを出して下さいました。

10分ほどすると奥様が李 Wanpai さんとおっしゃる女学生と一緒に上がって来られ、李さんはむしろ奥様と私の話しを横で聞きたいとのことでした。 (あとで聞きましたが、この李ワンパイさんも、御祖父が国民党による“白色テロ”の犠牲者でした。)

奥様は完璧な日本語を話します。李さんは日本語を分かりませんが夫人はときどき台湾語にするだけで、ほとんど日本語で会話しました。

私はまず自分の年齢とか職業を話し、台湾に興味を持ち始めたいきさつを話しました。
司馬遼太郎先生の『台湾紀行』がきっかけであると話しました。すると奥様は、『台湾監獄島』を書き終えたとき主人は“為すべきことは終わった”と。
びっくりしましたよ、どうしてこんなことを言うのかと。
それというのもね、『台湾紀行』で主人のことがとりあげられたことにお礼の手紙を出しましたら、 司馬遼太郎さんは返事を呉れましたよ。その中にね、“私は台湾紀行を書くために生まれてきたみたいなものです”という言葉があったんです。それから間もなく、司馬さんは亡くなりましたね。
主人の“為すべきことは終わった”にも、それがあったので、恐かったですよ。

因みに今回、公開しない約束で録音させて頂きました。ここに文字としましたのは、できるだけ奥様の言葉の通りを再現しようとしています。しかし扇風機の風が決まった周期でICレコーダーにあたり、人の耳には単なる風なのですが、レコーダーには暴風のように入ります。聞き取りにくいところは私の推定が入っています。

司馬遼太郎先生は1996年2月12日に亡くなりました。「台湾紀行」の最終が1994年3月25日の週刊朝日ですから、脱稿後二年です。単行本初版は94年11月1日です。柯先生との手紙のやりとりがどの時点であったのか、それによっては、亡くなるまでの期間はもっと短かったかも知れません。「台湾監獄島」は、第一刷 1992.07、第二刷 1993.07ですので、司馬先生はこのどちらかを読まれたのでしょう。

司馬先生が、「私は台湾紀行を書くために生まれてきたみたいなものです」と語ったということは、私信故確認はできませんが事実なのでしょう。この書物は司馬先生には異例のもので、それ故に“勝負をかけた”渾身のものであったと思います。その理由は、
「生身の現役政治家を正面から扱った」
ということです。しかも“惚れぬいた”感じで書いています。政治家ほど後世評価の変わるものはないし、目の前の姿がはったりに覆われた虚構なものはありません。見誤れば、人々の司馬さんへのそれまでの尊敬を失わせるほどのものでしょう。司馬さんは自分を賭けて、李登輝先生を評価したのです。『台湾紀行』 には、世の中にはこんな見事な人物がいるのだ、という司馬さんの喜びが息づいています。

さて、柯 旗化(コア キフォア)(か きか )先生についてですが、
1929年(昭和4年)1月に「左営」で生まれ、2002年(平成14年)1月、高雄で亡くなられました。
私の理解するところ基本的には“英語の先生”で、1960年に著した『新英文法』がベストセラーとなり、その出版のために設立した「第一出版社」の経営と「新英文法」の改訂補筆に専念するようになりました。現在までに200万冊が販売され、初版以来45年余を経てなお売れ続けているという、奇跡のような書物です。柯先生が緑島(火焼島=監獄島)に15年余投獄され、また先生がお亡くなりになった今も、蔡阿李奥様が立派に守っておられます。

「出版物が良かったから。私は注文が来たら包んで送っただけ」
と謙虚におっしゃいましたが、経営というものは勿論、そんなに簡単ではなかったでしょう。

『新英文法』はなぜあれだけ売れたのか、とよく聞かれる。私が自信をもって言えることは、台湾の同類書のどの著者よりも長い時間をかけ、より多くの心血を注いでこの本を書き上げたということである。《「台湾監獄島」第三刷 p.180》

=続きます=

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