2015年7月21日
1955年4月バンドン会議(二)


世界の教科書シリーズ 『インドネシアの歴史』イ・ワヤン・バドリカ
石井和子 監訳 (明石書房)
という本があります。


  1. 日本語版は訳者のあとがきを含め400頁を超す大部なものである。

  2. 全8章のうちの第6章「日本占領とインドネシア独立準備」は、日本の近代史教科書としても使えると思えるほどのものである。(p.237-258)

  3. 原著者 イ・ワヤン・バドリカ氏の2000年6月付序文によると、「1994年カリキュラム・1999年学習指導要領補遺に合致させるために」旧版を大幅に改訂したもの、のようである。

  4. 監訳者石井和子氏のあとがきによると、2004年に新しいカリキュラムが作成されたが2006年にはそれが撤回され、2007年には2004年カリキュラムに準拠した教科書の回収、焼却までなされたようである。原因は「9月30日運動」の 扱いにあったと想定されている。

  5. 1994年以前のカリキュラム並びにそれに準拠した教科書については野村は知ることができない。2004年に1994年カリキュラムが改定され、2006年にはその改定が撤回された。撤回されて1994年に戻ったのか、まったく新しいものになったのか、それも知る能力が私にはない。



以下に引用するインドネシアの「歴史教科書」は、従って、1999年、もしくは2000年初頭より使われたものと想定します。いずれにせよ「バンドン会議」から、45~50年経っています。バンドン会議当時の教科書がどのようなものであったか、知る由もありません。

しかしほぼ半世紀を経たとして、ここに書かれている内容は、“「インドネシア人400万人の死」に責任ある侵略者・日本”に対するものとしては、不思議な気がします。白柳大司教(のちに枢機卿)と日本共産党は、共に、日本は「2000万人の死に対して責任がある」と言っています。
白柳発言の根拠は分かりませんが、日本共産党は「Q&A」の形でその疑問に答えています。そこでは2000万人の内の400万人をインドネシアにおけるものとしています。私にはとても根拠になる資料とは思えませんが、この人たちはそう言っています。
白柳発言を踏襲している岡田大司教並びに司教団は、真面目にその根拠を示して欲しいものです。岡田大司教は最近、「しんぶん赤旗」紙上においても、2000万人を確認しています。


「インドネシアの歴史教科書」(以下『教科書』と記します)は、日本について下のように書いています。

なお、引用が長文に及びますが、短い引用は引用者の恣意が強くなると私は考えます。又多くの引用者がそれを承知の上で部分引用し、原著者の真意をねじ曲げて伝えています。「つまみ食い」というやつです。石井和子先生には本文をアップの上、ご承認を得たいと思います。もし承認が得られない場合は、石井先生のご指示に従い添削したいと思います。




[引用①] p.247-250

日本占領に対するインドネシア国民の反応

日本軍はインドネシア人の心を引こうといつも努力していた。それは、日本が遂行する戦争にインドネシア人を協力させることを目的としていたからである。インドネシア人の共感を得るために、日本占領政府は3A運動、プートラ(民衆総力結集運動)、そして郷土防衛義勇軍ペタ(Pembela Tanah Air: 略称PETA)などの組織をつくった。

この運動はその標語がアジアの光日本、アジアの護り日本、アジアの指導者日本というものであったので3A運動と呼ばれた。この運動はシャムステインがリーダーシップをとったが、人民の共感や関心を引くことがなく、1943年に解散しプートラ(Pusat Tenaga Rakyat:略称Putera)に取って代わられた。

この組織は1943年に「四人組」、すなわちスカルノ、ハッタ、キ・ハジャル・デワントロ、キアイ・ハジ・マス・マンスールの指導下で結成された。このプートラも日本が遂行している戦争にインドネシア民衆が協力するよう、インドネシア民衆の関心を引くことを目的としていた。しかし、日本製であるこのプートラ運動は日本に対しブーメラン効果をもたらすこととなった。プートラのメンバーたちが高い民族意識を持つ原因となったからである。

日本軍がインドネシア民衆に対して叫んでいた反連合国の宣伝は、日本が望んでいたような結果をもたらさなかった。反連合国宣伝は反帝国主義と同じことであった。ところが、日本は帝国主義国の仲間入りをしていたのであるから、それは間接的に日本のインドネシア駐留に反対することでもあった。他方、インドネシアにおける日本占領時代には肯定的な面もあった。たとえば多くの点でインドネシア化が進んだ。とりわけインドネシア語が公用語となり名称がインドネシア語化され、政府高官の職務がインドネシア人に担当されるようになった、などである。

ペタはインドネシアの若者をメンバーとした日本製の組織である。このペタ組織においてインドネシア人の若者が日本軍から教育と軍事訓練を受けた。この若者たちがのちにインドネシア民族と国の独立闘争の大黒柱となった。

そもそもこのペタの結成は、日本が太平洋において連合国軍との戦いに必要な兵力を満たすためであった。しかし、インドネシア人民にとってもペタは、武力による戦いを通して独立を勝ち取るために大きな効用があることがわかった。たとえば、スディルマン将軍およびA.H.ナスティオン将軍はインドネシア軍の重要人物であるが、彼らはかつて日本時代にペタの指導者であった。やがて、ペタはきわめて民族的な性格を持つようになったため、インドネシア領域における日本の占領に非常に危険であるとみなされた。

その後日本は1944年にジャワ奉公会という組織をつくった。この組織の指導部は日本軍司令部の下にあった。

一方、さまざまな事件や出来事を通してインドネシア人指導者たちの日本に対する信頼が薄れ始めた。そして日本は太平洋におけるアメリカ軍の報復攻撃の結果敗戦を続け、太平洋地域および大東亜での日本の状況はきわめて困難なものになった。
インドネシア人民が独立を達成するために行うことになるさまざまな運動の母体となった上記の諸組織のほかに、地下活動でスカルノやハッタと秘密裏に連絡をとっていた以下のような組織グループもあった。

a. アミル・シャリフディンのグループ
アミル・シャリフディンは強固な反ファシズムの人物であった。このことは日本に知られており、そのため1943年に逮捕され死 刑の判決が出ていた。しかし、日本の指導者たちに対するスカルノの外交努力によって死刑から終身刑に減刑されていた。

b. スタン・シャフリルのグループ
このグループはインドネシアのさまざまな都市の知識階級の支持を得ており、ジャカルタ、ガルット、テレホン、スラバヤおよびその他の都市に支部を持っていた。

c. スカルニのグループ
このグループはインドネシア独立宣言の間際にきわめて大きな役割を果たしている。アダム・マリク、ハイルル・サレーがこのグループの参加者である。

d. 海軍グループ
このグループはアフマド・スバルジョが率い、A.A.マラミス、サムシ、ブンタラン・ガトット等がメンバーであった。このグループはウィカナを議長として「独立インドネシア塾(Asrama Indonesia Merdeka)」を設立した。教授陣はスカルノ、ハッタ、スタン・シャフリル等であった。

これらの諸グループの間にも、非常に隕られたものであったが、協力関係が生まれていた。この協力関係は、取り巻く状況が日本の秘密警察(憲兵隊)とその手先によって恐怖に満ちたものになっていたため密かに行われ、その抵抗活動においても、残酷かつ凶暴な行動に出る敵に気づかれないようにカモフラージュを多用した。


上のことは韓国・白善燁(ペク・ソンヨプ)将軍の回顧、
「当時の満州国は人口3,000万人、ここに選抜徴兵制をしいて10万の軍隊を整備し、士官学校に相当する軍官学校ばかりか、陸軍大学に相当する高等軍事学院まで設立した。植民地にこれだけの軍事教育機関をもうけて軍隊を育成した例は、寡聞にして知らない。」(「若き将軍の朝鮮戦争」p.69)
に符合します。
日本は植民地の若者に「軍事教育」をした、稀有な民族です。
日本人から軍事教育を受けたインドネシアの若者たちが、「のちにインドネシア民族と国の独立闘争の大黒柱となった。」と記されています。日本人に軍事教育を受けた韓国の若者は、朝鮮戦争を立派に戦い抜きました。




[引用②] p.250-252

日本占領時代に起きた反乱

苦難に満ちた状況のなかで人々が求めていたのは娯楽であった。その娯楽の一つで盛んになったのは芝居で、最初は日本の宣伝道具であったが、やがてそれだけでなく、パリンドラ〔大インドネシア党〕のメンバーであるチャック・ドゥラシムが日本の傍若無人の振る舞いを非難したように、人々の精神と肉体の苦しみを声に出していう勇気を持つようになった。スラバヤではルドゥルックという大衆劇が、演目「ハト小屋さえも日本のためにますます酷くなった」を演じて大変人気があった。このルドゥルックは深い政治的・社会的批判を内包しており、明らかに日本政府に反抗していた。そのため、演技者たちは逮捕され死に至るまで拷問を受けた。

これと同様に、民族主義的文学者たちも祖国に対する愛をテーマに作品を書いた。ウスマル・イスマイル(Usmar Ismail)による『火』と『チトラ』、エル・ハキム(アブ・ハニフアー)による『アジアの嵐』、『特別な知識人』、『女神リニ』などである。また生活の苦しさが原因で民衆の抵抗が以下のようにいくつかの場所で起きた。

  1. 1942年、アチエで日本占領の初期にトゥンク・アブドゥル・ジャリル(Tengku Abdul Ja111)の指揮の下、チョツト・プリン、ロクスマウェで反乱が起きたが鎮圧された。2年後の1944年にメウレウでトゥウク・ハミドの指揮の下で再び反乱が起きたがこれも日本軍によって鎮圧された。

  2. 1943年にシンダン(インドラマユ県)のカラン・アンペルで日本に対する住民の抵抗が起きた。この抵抗はハジ・マドリヤン(Haji Madriya、n)とその仲間に率いられていた。しかしこの抵抗は日本によってきわめて残酷に鎮圧された。

  3. 1943年、スカマナ(タシクマラヤ県)で日本に対する住民の反乱が起きた。この反乱はハジ・ザエナル・ムスタフア(Haji Zaenal Mustafa)が指揮していた。この反乱で日本の手先が殺害された。これに対し日本は常識外の報復を行い民衆の大量殺害を行った。

  4. 1945年2月14日、ブリタールでスプリヤディ(Supriyadi;ブリタール県知事の息子)の指揮によるペタの反乱が起きた。これはスプリヤディ単独による反乱ではなく、イスマイル、ムダリ、スオンドなどの友人たちが支援していた。この反乱でブリタールにいた日本人は全滅した。この英雄的な反乱は真に日本を驚かせた。特にそのとき日本は大東亜および太平洋の戦いで敗北続きであった。その後日本はスプリヤディの所在地を包囲したが、スプリヤディの軍は依然として抵抗を続けた。日本は反乱者たちに、降伏さえすれば安全は保障しすべての要求は聞く、と奸計を用いた。この日本のだましは成功し、ペタの多くのメッバーが降伏した。降伏したペタ軍は日本の法から逃れること ができず、イスマイルや彼の仲間たちなど何人かは死刑となった。そのほか拷問によって亡くなった者もいた。

一般的に日本のインドネシア占領は受け入れられなかった。日本は西カリマンタン地区でも知識人たちに対して大量の殺人を犯している。その地区では少なくとも2万人が日本軍の獰猛さの犠牲になっている。避難してジャワ島に逃げることができたのはほんのわずかな人たちであった。
日本は太平洋戦争の各戦場で敗北を経験し、1945年8月14日〔ポッダム宣言を受諾し〕、ついに連合国軍に降伏した。


「日本軍はインドネシア人の心を引こうといつも努力していた。それは、日本が遂行する戦争にインドネシア人を協力させることを目的としていたからである。」と記されています。魂胆があった、ということでしょう。それであっても、インドネシア人400万人の死に日本軍が関与したとの日本のカトリック司教団や日本共産党の主張とは逆の姿を窺わせます。列記されたインドネシア人の反乱と日本軍によるその鎮圧も、西カリマンタン地区における2万人が唯一の数字で、日本共産党の言う400万人が何を根拠とするのか、『教科書』には記されていません。




[引用③] p.240-241

1871年に文部省が設置された。6歳から14歳までの児童を対象として義務教育制度が発布され、日本は非識字者をなくした世界最初の国どなった。そして学校教育を通して祖国と天皇を愛する心が植え付けられた。日本の天皇制が今日に至るまで変わることなく栄えている理由はここにある。
1873年、新しい税法が制定され、大名所有の土地が農業地として農民たちに分け与えられた。日本の商業も急速な進歩を遂げ、銀行が設立された。
そして、海外貿易のため日本の船が大洋を航海するのが見られ始めた。政府は多くの工場を建て、日本の産業発展は世界で非常に重要な意味を持つようになった。
このように日本は明治維新後きわめて短期間に先進国となり、西洋諸国と肩を並べることができるまでになった。日本は旧式の国から近代国家へ、小国から世界から恐れられる大国に変身した。


これは日本の近代化に対する高い評価のように、私には読めます。




[引用④] p.241-242

日本の近代化および帝国主義政策の結果

日本の産業は1868年の維新以降急速に発展し、人口も増加の一途をたどった結果経済面に影響が出てきた。土地の広さが人口に見合っていないことが明らかとなり、日本はオセアニア、アジア、およびアフリカにおける西洋諸国による植民地獲得競争に関心を払っていた。そして自分に力がついたと感じたとき、西洋諸国に倣って植民地を獲得したいという願望を持つようになった。
19世紀の終わり頃日清戦争(1894~1895年)が起き、この戦争で日本は勝利を収めた。その後日本は中国に21力条の要求を出し、遼東半島、台湾、朝鮮、およびいくつかの小領域を要求した。満州の占領をめぐって日本の軍隊がロシアの軍隊と衝突し、1904~1905年に日露戦争が勃発した。日本は満州でロシア軍を撃退するのに成功した。この勝利は日本に大きな結果をもたらし、アジア諸国にも非常に大きな影響を与えた。日本は旅順とサハリン島を獲得するとともに、西側諸国と同列に序せられるようになった。一方アジアも、
アジア民族が西洋諸民族に力で対抗できた事実によって、ナショナリズムに目覚めるという大きな影響を受けた。


日本の帝国主義の勃興を書いていますが、日露戦争における日本のロシアへの勝利が、アジア人の民族主義を目覚めさせた、と記しています。




[引用⑤] p.243-244

アジア太平洋における日本近代化の影響

日本の近代化は世界の大きな近代化、特にアジア地域における近代化のなかの一環である。日本近代化の影響は政治、軍事、そして経済の面から見ることができる。

日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。たとえば、インドネシアでは1908年にブディ・ウトモが生まれ、ベトナムでは1907年にベトナム復活同盟が生まれた。一方、それより以前にすでに民族運動を経験していた国々、なかでもインド、フィリピンでは、日本の近代化のあと民族運動がいっそう活発になった。

太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。

日本は八紘一宇(Hakko Ichiu)の旗印の下、世界支配に向けていっそう精を出した。彼らは神道に従って他の民族を指導する神聖な任務を帯びていると考えており、自らをアジア民族の兄貴分とみなし、弟たち、すなわち他のアジア諸民族を指導する義務があると主張した。また、日本の支配地においては日本化が広く行われたが、Iこれはアジアにおいて西洋帝国主義の地位に取って代わろうとするためであった。

日本の軍隊は高い武士道精神を持ち、近代装備に支えられた小人軍(日本人は大変背が低かったので)として知られていた。成功を続ける日本の拡張に対し、西洋諸民族は北から来る「黄色」の危険を認識するようになった。日本と英国との同盟〔日英同盟〕は、日本がロシアと対戦するための準備であった。その同盟期間が終了したあと、アメリカは西洋と太平洋の国として1921~1922年にワシントン会議を主宰した。この会議でアメリカ、イギリス、フランス、そして日本の間で合意がなされ〔四国協定〕、それぞれの国は太平洋地域における他国の領地を尊重し海軍力を制限することになった。
しかし結局日本が原因となって太平洋戦争が勃発し、アジアに植民地を持っていた西洋諸国は連合軍を組んだ(ABCD包囲陣)。しかし、東南アジアにおける日本の膨張を止めることができなかった。

日本はダンピング政策で工業製品の市場を奪おうとした。東南アジアは人口が多いため、日本の工業製品市場として良い標的であったが購買力が低かった。西洋諸国が植民地支配者として日本製品流入に制限を設けたが、“Made in Japan” の製品は広い市場を獲得した。日本は八紘一宇のプログラムに洽って英国の連邦のような大東亜共栄圈(persemakmuran bersama Asia Timur Raya)を結成することを宣伝した。それは工業製品の原料が豊かな国が、工業先進国としての日本と協力関係を結べば、共栄に向け息の合った協力関係が実現するというものだった。
太平洋戦争(1941~1945年)によって日本は食糧、工業原料その他が豊富な東南アジア地域を支配しようとした。それらの地域は、激しくなった大東亜戦争を成功させるための供給地区〔兵站〕になった。




[引用⑥] p.252-253

インドネシア国民にとっての日本占領の影響

日本軍がインドネシアに進駐して以来、政治的組織はどこも活動不能になった。日本占領政府は政治的性格のものであろうと、社会、経済、そして宗教的性格のものであろうと、あらゆる形の組織活動を廃止させ、それらの組織を日本製の組織に替えた。その結果、日本のインドネシア占領に抵抗を続けた組織がいくつかあったものの、その時代の政治活動は日本政府によってコントロールされていた。

帝国主義国として日本民族が行ったインドネシアの占領は、ほかの帝国主義の国々が行ったことと大きな違いはなかった。日本民族がインドネシアに進駐した背景には経済問題がある。すなわち工業製品の原材料を産出する土地を探し、工業製品を売る市場を探していたのである。

日本のインドネシア占領時代には、オランダ領束インドの占領時代と比較して教育面での急速な進展があった。日本占領政府はインドネシア民族に対して政府が建てた学校での教育に参加する機会を与えた。そのほかインドネシア語が仲介語として各学校で利用され、インドネシア化された名称が使われた。しかし、日本がインドネシア人に広く教育を普及させた目的は、日本に対する好感情を育て太平洋戦争で敵と対決するにあたり、インドネシア人たちの協力を得るためであった。

ファシストの国として日本は、常に日本の文化をインドネシアに植え付けようとした。その一つは太陽が昇る方向を敬う習慣であった。これは太陽神の子孫であるとみなされていた天皇を敬うための日本の伝統であった。

日本占領時代、人々の社会生活は不安に満ちたものであった。人々のあらゆる活動が、日本が敵と戦う上で必要なものを満たすために振り向けられたので、人民の苦しみは増す一方であった。労務者(romusha;強制労働)になった人たちは特に苦しんだ。多くの人が空腹と病気のために犠牲者となった。

インドネシア地域における日本の権力は軍関係の手に握られていた。すなわち、陸軍と海軍である。したがって、インドネシア統治のシステムは軍の制度に基づいて整えられた。

インドネシア地域における日本の統治は、特に軍事面で重要な意味を持っていた。インドネシア人の若者はペタの組織を通じて軍事教育を与えられていた。このペタに参加した若者たちが、のちに独立を求めるインドネシア人民の闘争活動の核となった。


「日本のインドネシア占領時代には、オランダ領束インドの占領時代と比較して教育面での急速な進展があった。」と記されています。例えそこにどのような魂胆があったにせよ、教育をすることは日本人の本能のようです。オランダは300年、「愚民政策」をとりました。台湾の古老がかつて私に語って呉れた言葉があります。「日本が派遣したのは先生(教育)、医師(衛生)、建築家(インフラ)だった。蒋介石が持ってきたのはボロを着た兵隊と鉄砲だけだ。」


日本が降伏した翌々日(1945.08.17)、インドネシアは独立を宣言します。スカルノによって読み上げられた独立宣言文には、17-8-'05と、皇紀が使われています。(2605年)

『教科書』 p.263 におかれているスカルノ自筆の草稿です。


日本が去った後、オランダが再びやってきて、4年5ヶ月間、熾烈な独立戦争が戦われます。日本の軍人軍属数千人がインドネシアに残り、共にオランダと戦い、400人~1000人が戦死しています(資料によって色々です)。
多くがインドネシア各地の「英雄墓地」に葬られています。
wikipedia によれば、
「2014年8月25日、小野盛(インドネシア名:ラフマット)が94歳で死去した。小野は、行方不明者を除くと、最後の残留日本兵とされ、これで所在が確認できるインドネシアの残留日本兵は全員死亡したとされる。小野の葬儀はインドネシア国軍が執り行い、棺にはインドネシアの国旗が被せられ、カリバタ英雄墓地に埋葬された。」
とあります。

今年、4月22日、安倍首相は、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議行事日程の中で、「カリバタ英雄墓地」へ参っています。

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