2013年2月11日
体罰について
今日は「建国記念の日」
夜明けとともに国旗を掲げました。
筋向かいのお家も必ず掲揚します。
拙宅の周辺では四軒ほどが祭日には日の丸を揚げますね。
伊吹文明衆院議長が、自民党岐阜県連が岐阜市で開いた政治塾で、
「体罰を全く否定して教育なんかはできない」
と語ったと、各紙で報じられています。
発言の全体が分からないので論評しませんが、
「人を育てるには、子どもの時から多少のたたきは必要なのでは」
との参加者からの質問に答えたそうです。
ごく普通の答えと思います。
朝日新聞らしいのは塩入彩記者の署名入り記事で、
「教育現場での体罰排除に否定的とも受け取れる見解を示した」
と挿入しています。 そんなことは全く言っていませんけどね。言葉の理解能力の問題でしょう。あるいは曲解能力というか。
なおこの文章は極めて卑怯な気持の悪いものです。典型的“朝日・NHK構文”です。
「否定的とも受け取れる」←“も”を入れることによって言葉の意味(引用者の責任)を糊塗します。
しかし効果は「否定的と受け取れる」と同等を伝えます。
「否定的とも受け取れる」←誰が受け取れるのか、記者か、読者か。
記者が受け取れるというなら前述の通り、読解力、曲解力の問題です。記者はそうは受け取らないが読者の中には受け取る可能性(受け取れる)があるというなら、余計なお世話です。
「教育現場での体罰排除に否定的な見解を示した」
と断定するなら挿入すれば良いのです。その断定の曲解は露見しますから。でないなら、入れないのがフェアです。
少し前に、大変にオモシロイ出来事がありました。
これもほとんどの新聞が報じていますが、折角ですから、朝日新聞からコピーしましょう。
「ハゲ」と言われ平手打ち 神奈川の教諭、生徒16人に (朝日新聞デジタル 2月2日(土)19時57分配信)
神奈川県小田原市教育委員会は2日、市立中学の50代の男性教諭が生徒から「死ね」「ハゲ」などと暴言を吐かれたことをきっかけに2年生の男子生徒16人を平手打ちする体罰があったと発表した。教諭は生徒や保護者に謝罪、当分の間は教壇に立たないという。
市教委によると、1日午後の数学の授業に男子生徒らが遅れてきたため、教諭は「早く入れ」と促したが、複数の男子生徒が「うるせえ」「ばか」などと言い、笑い声も起きた。教諭は発言した生徒を問いただしたが名乗り出ないため、遅れてきた男子生徒16人全員を廊下に正座させた。再度、ただしたが名乗り出る生徒はなく、教諭は「卑怯(ひきょう)じゃないか」と、16人全員を平手打ちしたという。
授業の後、教諭が自ら校長に報告した。「体罰がこれだけ報道されているのに申し訳ない」と反省しているという。教諭はこれまでも生徒から「ハゲ」などと言われることがあり、「差別はいけない。言ったことの責任を持たなければならない」と諭していたという。朝日新聞社
事実がこの通りであれば、私はこの先生を断固支持しますね。
これを否定したら教育なんて成り立たないと思います。
拳骨でなく平手打ちでしょう。
「市教委は(中略)“どんな理由があっても、体罰は暴力であることを徹底したい”と話している(毎日新聞社 2013年2月3日)」
そうです。
「死ね」「ハゲ」「うるせえ」「ばか」と、言わば罵倒されて、なお教師は、怒ってはならないのか。
個人の「誇り」「尊厳」の意味から、これは怒らなければならないのです。怒るべき時に怒る姿を見せる、これも大切な教育であります。
可視的な平手打ちでなく、教師にはもっと陰湿な生徒への制裁方法はあったでしょう。(多くの教師がそれをやっているでしょう)。しかしそれは他の生徒への教育にはならないのです。
私は「尊厳」=バカにされる、という基準において、教師も生徒も無いと思います。一線を超えたら、教師も生徒も互角だと思います。
私は人をイジメたことはありませんし、イジメられたこともありません。
またそのような現場を見たこともありません。田舎ではそれは無かったと思います。
中学時代、ある先生から、よく頬を張られました。先生の顔は今でも良く覚えています。武市先生といいました。それも親愛感をもって憶えています。
小柄でメガネをして、髭のものすごく濃い先生でした。
1) 平手打ちに限りました。逆手打や拳骨は絶対しない。
2) 肘は動かさない。支点は手首限定です。
3) 従って動作は手首・手のひらの、回転範囲のみです。ほっぺたの10センチくらいのところからピシッと来る。
やられた感じとしては、一番適当な例えは、ビッと来る静電気ショックですね。電圧は高いのですが電流は微少。
痛いのは瞬時、表皮のみです。しかし確実に痛い。
以上の要領は後年、先生ご本人から聞いたことです。
手首だけを使ってお前らに「効かせる」には、それなりにワシも練習しとったんや、とニヤリとしました。髭面に歯が白かったです。
先生は小柄なくせに手は大きく指が太く、掌の皮もごわごわしていました。毎日竹刀を振っていました。
因みに仲間同士の喧嘩、決闘も、時々ありました。
必ず1:1です。大勢で一人をいじめるようなことは、私は見たことがありません。
その場合は絶対に「素手」です。
素手で殴り合うと、拳の皮は簡単に裂けます。手は血だらけになります。自分が痛くて喧嘩は自動的に続けられなくなります。
相手を痛めることは、自分も傷むことです。大切な、人生上の体験の一つと思います。
私の拳には本人だけには分かる皮の避けた痕跡があります。
高校時代、
クラスが違ったので実際の現場を知りませんが、
ある先生(評判の良くない先生でした)が某君を制裁しようと手を振り上げたとき、某君は左手でそれを防御し、右手を先生の顎に入れました。
カウンター・パンチというやつです。先生はひっくり返りました。それが私の唯一の、在学中の「体罰関連」ニュースです。
噂された先生も生徒も、その後何食わぬ顔でした。学校は平穏でした。
先生は二度と、生徒に手を上げることはありませんでした。
あらゆることに得失はあるのですが、
「反撃」を正当化をしないと、“いじめ”“体罰”は無くならないと思います。
自分が「安全圏」にあると思うから、やる方の歯止めが無くなるのです。
無抵抗は、暴力のエダクターと、私は思います。
「反撃」の許諾ラインは、「尊厳を冒された」時、であると思います。その線上で、教える方も教わる方も、同位置になります。
自己の尊厳というものを、教師も生徒も認識しなければならない。それを道義的倫理的に、教え、互いに確認しなければならない。
それが教育であり、他への配慮に繋がるのです。
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第一場 :[○市立△△中学]二年B組
伊吹波平教諭、教材を左手脇にし、背筋を伸ばして教室に入る。
遅れて、ニヤニヤ雑談しながら大勢(16人)の男子生徒が教室に近づいて来る。
波平教諭 :「早く教室に入りなさい」
生徒 : 「うるせえ」
「ばか」
(笑い)
「はげ」
「死ね」
波平 : 「お前ら、全員廊下に並べ」 「正座せい」
「誰がうるせえと言ったのか」
「・・・・・・・」
「誰がばかと言ったのか」
「・・・・・・・」
「誰がハゲと言ったのか」
「・・・・・・・」
「ハゲは差別語ではないか。毛の少ない人といえないのか」
「毛の少ない人が即ちハゲであります」
「ハゲをハゲと言ったら差別だ。何であれ事実をその通り言うことは差別だ。ハゲと毛の少ないことは同じだが、毛が少ないと言っても差別でない。ハゲは差別語だ。言うな。言葉は出来るだけ意味を抜いて語れ。分かったか」
「・・・(ハゲはハゲだろう、ブツブツ)・・・・」
「誰が死ねと言ったのか」
「・・・・・・・」
「誰も名乗り出ないのか。卑怯な意気地なしめ。顎を前に出せ。耳に注意せえ。いいか」(注、耳を引っぱたくと鼓膜を破ることがある)
バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、バチッ、(16人分)
第二場 :[○市立△△中学]校長室
波平教諭 :「授業に遅れてきた生徒たちに早く教室に入りなさいと命じたところ、ハゲ、ばか、死ね、と侮辱されたので、廊下に出し正座させ、発言者の名乗りを命じました。ところが誰も名乗り出ず、その卑怯を糾すため全員頬にビンタをかませました。体罰がこれだけ報道されているのに申し訳ございません。」
校長 :「よくやりました。それが教育です。やらなかったら、教育の放棄です。教師と生徒の問題以前に、これは人としてのプライドの問題です。うるせえ、ばか、死ね、と言われて沈黙することはプライドの放棄です。そして教育の何よりの根本は、自らへの尊厳を教えることです。教育委員会へは報告しておきます。」
第三場 :○市、教育委員長執務室
校長 :・・・・という経過でございます。
教育委員長 :ふうむ、・・・困りましたなあ、こんな時期に。
生徒は地雷だと思って貰わなけりゃ。触ったら吹っ飛ぶのはこっちなんです。彼らは安全地帯にいる。
いいですか。彼らは彼らの人生です。いずれ気づくだろうし、気づかないかも知れない。それ相応の人生を送るのです。気付くときは、彼等はそれなりの代償を払って気付くでしょう。我々は何もそこまで真剣に付き合うことはないのです。
いずれにせよ新聞に先に嗅ぎ付かれたら大騒ぎになります。機先を制して、こっちから通報しましょう。隠すと大変なことになります。一番に朝日新聞に流すことにしましょう。
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