2012年12月11日
大震災1年9ヶ月−斑目春樹氏の「証言」


『証言 斑目春樹』(新潮社)を一気に読みました。私は斑目氏を随分いい加減な人と思い、そのように書いてきました。この本を読んで、大幅に修正したいと思います。当然ながらこの「証言」に氏の自己弁護はあるでしょう。しかし全体として十分に納得できるものです。菅直人という人、原子力安全・保安院、文科省に対して、怒っています。

福島第一原発に関する資料としては、必読のものと思います。

何カ所か引用してみます。

p.39-40
  15条通報を受け、午後5時40分頃、官邸に向かいました。
   到着すると、まず官邸五階の総理執務室に通されました。
「助けて下さい」
   私を出迎えた保安院のナンバー2である平岡英治次長がそう懇願しました。いったい何事かと思いました。だいたい、本来この場にいるのは保安院トップの寺坂信昭院長のはずです。ところが、姿が見えない。
   後で聞いたのですが、菅さんに原発の状況を聞かれたのに、寺坂さんはまともに質問に答えられなかったようです。それを厳しく叱責されたため、官邸を辞した後でした。
   その後、私は官邸内で寺坂さんにお目にかかった記憶はありません。
   寺坂さんは、経産省の事務官です。大学では経済を専攻し、経済はともかく、原子力はずぶの素人でした。ところが、どうしたことか、技術に精通しているべき保安院の院長に就いていました。寺坂院長が答えられなかったので、次は平岡次長が菅さんに詰問されました。平岡次長は技官ですが大学では電気を勉強していて、原子力には詳しくない。
   日本の不運か、菅さんの悲運か、こんな時に、適任者が適切なポストにいない、とはまさに痛恨の極みです。平岡次長の「助けて」は、そういう理由だったのでしょう。

   確かに、菅さんにも相当に問題はあります。すぐに怒鳴り散らす。携帯電話だと、耳に当てて話すと鼓膜が破れるのではないかと思うくらいです。何日か後、私が直接電話で指示を受けたときは、電話を机の上に放り出してしまいました。怒鳴るだけでなく、人の話もちゃんと聞かない。話を遮り、思い込みで決めつける。
   震災発生後は、いつもテンパつていました。精神状態がガチガチで、ほとんど余裕がない。
   一国のリーダー、それも国難とも言える危機的な状況では、リーダーの座にふさわしい人物だったかどうか。
   だからといって、寺坂さんのように、叱責されたから自らの職責を放棄して官邸から逃げ出してしまっては、話になりません。最も大切な瞬間に敵前逃亡したわけですから、決して許されざる行為だと思います。


あの時の原子力安全・保安委員会、その院長も次長も、原子力の分からない人間だったというのです。しかも院長は菅さんに怒鳴りつけられてトンヅラしてしまいます。

菅、という人は、本当に質の悪い人物でしたね。

p.80-81
   1号機ですでに炉心溶融、すなわちメルトダウンが起こっていると考えられることを、保安院が12日午後の会見で公表していました。まさに緊急事態でした。ところが、この発表を契機として、官邸の情報の判断には、技術的な合理性とは別のものが混ざり込むようになってしまったのです。
   ことの発端は、保安院が炉心溶融の見解を発表したことに、枝野官房長官やその周囲が不快感を示したことでした。状況から見て炉心の溶融はもう疑う余地がありませんでしたが、枝野さんにはそうした詳しい状況が十分に伝えられていませんでした。そもそも、枝野さんたちには技術的な内容について詳細は理解できていなかったのですが、そこへいきなり「メルトダウンが起こっている」という話が入ってきたために、「いったい、どうなっているんだ」ということになったというのが真相のようです。そのため枝野さんの周辺は保安院に対して、きちんと情報を官邸に伝えるようにと強く抗議したということです。
   保安院としては、寺坂院長が逃げ出してしまったこともあり、この抗議に過剰反応を見せます。今度は、その日の夜の記者会見などで「メルトダウンはまだ起きていない」と真逆のことをメディアに説明し始めたのです。また、メルトダウンに言及した広報担当者も交代させられました。
   福島第一原発で何か起きているかということについて、政治家、官僚、東電などそれぞれの思惑が交錯する中で、この頃から理解や判断に政治的なファクターが色濃く反映されるようになりました。

この辺りはよく覚えています。最初の報道官はすぐ交代させられました。見え見えの隠蔽でした。あれで保安院や政府の説明をマユツバで聞くようになりました。民主党というのは、平気で嘘を吐く政権でした。
 

p.126-127
   午前11時頃、鈴木副大臣が呼びかけた文科省内の政務三役協議が開かれます。その場で枝野さんの指示を踏まえ、「当省は放射線による影響の評価は行なわないことになったのだから、評価が伴わないSPEEDIなどの生データだけの公表は意味がないので、今後は原子力安全委員会において運用・公表する」ということが文科省内で全く内部的に決められたのです。
   実に強引で、乱暴な拡大解釈だとしか言いようがありません。しかも文科省とは別の組織である原安委の所掌業務の変更を勝手に決めている。原安委や文科省のそれぞれの設置法といった関係法令さえないがしろにするものです。
   ただし、もともと、官邸や各府省におられる民主党の政治家の皆さんは、法で作成が定められた原災本部の議事録も残しておらず、菅さんに至っては、後に行政指導というか、超法規的措置により全国の原発を全て止めてしまった。いずれにせよ、法に則って仕事をする気がない。いくら政治主導でも、法律の無視、軽視は度を越しているのではないか。

「法に則って仕事をする気がない」と、斑目さんは言っています。つくづく、国民を馬鹿にした集団でした。

p.152
「不安」だけを解き放った菅首相
   菅さんは、ある時点から、反原発、脱原発に立場を変えた方が、政治家として支持が得られると考え始め、路線を変えたのではないでしょうか。もともと、確固たる信念のない政治家なのかもしれません。
   市民活動家として政治の道を歩み始めましたが、自民党から政権を奪取し、権力を手中に収めた後は、消費税引き上げを主張しています。原発についても、首相に就任直後の2010年6月に閣議決定した「エネルギー基本計画」で、2030年までに14基を新増設し、発電量の50%を原発で賄うという方針を打ち出しました。自民党政権当時は、30%から40%でした。さらに原発の海外への輸出も、菅政権の成長戦略の一つでした。こう見ていくと、菅政権は震災が起こるまでは、長年与党だった自民党よりも、はるかに原発推進派だったのです。

p.156
   施政者に、こうした愚挙は許されない。理性を失って自らが不安になり、国民の不安感まで煽ったあげく、感情的に国を動かすようでは、施政者の資格がない。大切なのは、理性と合理的かつ冷徹な判断です。
   菅さんは、浜岡原発の「安全性」「危険性」とは何かを明確に語らなかった。福島第一原発の事故直後の、あのテンパつた精神状態から考えると、むしろ「語れなかった」と言うべきかもしれません。結果として、「不安」だけを解き放ってしまった。
しかも、この会見は、海江田さんが予定し、準備していたものだそうです。海江田さんは浜岡原発も直に視察している。経産省は、浜岡原発をしばらく止めることで、原発の安全性を厳しくチェックする姿勢を示し、他の原発での安全確認に信頼を得ようとしていたようです。菅さんは、それを横取りして、自らの手柄とした。


こういう証言を読んでみると、ばたばたと「原子力安全・保安院」「原子力安全委員会」を解体したのは、特に「安全・保安院」の責任を雲散霧消させる目的ではなかったかと思います。

「“敵前逃亡”については斑目先生が直接書いていますが、


(産経新聞)2012.04.24(部分引用)
保安院には順守することを定めた4つの行動規範がある。筆頭は「強い使命感」であり、こう続く。《常に国民の安全を第一に考えた任務遂行》《緊急時における安全確保のための積極果敢な行動》。残り3つは「科学的・合理的な判断」「業務執行の透明性」「中立性・公正性」だ。

“敵前逃亡”は寺坂だけではない。福島第1原発で勤務していた保安検査官らも同様だった。当時、原発敷地内には保安検査官ら職員8人がいた。平時は施設の巡視点検などを行うのが役割だが、緊急時には現場確認や本院への情報提供を行うことになっている。
彼らは、3号機が水素爆発し、2号機でも原子炉内部の放射性物質を含む蒸気を外部に逃す「ベント」ができないなど、状況が悪化する中、事故から3日後の昨年3月14日午後5時には、独断で現地を離れていた。国は現場の情報を得るチャンネルを失い、情報収集は東電に頼らざるを得ない状況が生まれた。


「原子炉の安全設計審査指針」の見直しについても、強い抵抗があったことを斑目先生は伝えています。


p.144-145
   原子炉の安全設計審査指針も奇怪です。
   「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」と解説にわざわざ書いてある。国会事故調、政府事故調ともに、この一文が今回の事故をもたらしたと指摘しています。私も「明らかな間違い」だと思っていました。
   しかし、秘書官はこうした指針類の見直しにも否定的でした。原発の維持を最優先したのでしょう。私は「被告」と怒鳴られたこともあり、言い返すことができませんでした。


因みに、ここにある秘書官とは「菅総理秘書官」です。官邸が当初、原発維持を求めていたことが分かります。菅さんが急速に「反原発」へと舵を切ったのは、自らの行動の不適切が露わになり、それを糊塗するには原発を絶対悪とするしかありませんでした。これは小沢さんも同様で、夫人によってその意気地なさを暴露された上は、原発を「絶対危険」なものと否定する以外、立場は保てませんでした。

このような安全基準見直しへの抵抗・圧力は、下の報道からも明らかです。本件は斑目先生も、本書の中で触れています 


「寝た子起こすのか」 保安院長が安全委に
06年の対策強化案
内閣府原子力安全委員会の原子力防災指針の改定作業に経済産業省原子力安全・保安院が反対した問題で、2006年5月、保安院の広瀬研吉院長(当時)が、対策強化を目指す安全委に対し、「なぜ寝た子を起こすのか」と発言していたと、久住静代・安全委員が16日、報道陣に明らかにした。原発推進の経産省で規制を担う保安院の体質を示す発言として議論を呼びそうだ。
久住氏によると、広瀬氏は同年5月の昼食会で安全委員5人に対して発言したといい、1999年に茨城県東海村で起きたJCO臨界事故後から加速した規制強化の流れが一段落した、当時の情勢を背景にしたものとみられる。 (読売新聞2012.03.17)


私たち企業では、例えばISOマニュアルについても全社員が参画して常時見直しています。見直すのが当然である訳です。世の中で起こったこと、自社で起こったこと、新しい経験、技術、見直すべき要因は常に存在するのです。見直す作業そのものが社員全体の勉強でもあります。

「日本国憲法」についても、見直すことに強烈な抵抗があって、実際、見直されていません。大津波を“想定していない”のでしょう。全交流動力電源喪失は“あり得ない”というのですが、そう言っている人たちは、事が起これば速やかに“逃げる”でしょう。これは確実に“想定”できます。最後まで電話の交換を続けた樺太・眞岡郵便局の乙女たち、3.11における南三陸町職員遠藤未希さんの崇高に匹敵する、安全・保安院職員は皆無でした。


2012.12.13追記
今日の産経新聞「正論」欄で佐瀬昌盛氏が、
“岸内閣の閣議決定になる「国防の基本方針」”は、
「岸氏が締結した現行の日米安保条約の3年前だ。それは、わが国の防衛政策に関して格式上は最重要文書である。今日まで一字一句の変更もない。」
と指摘しています。それは、日米“旧”安保条約下の文書であるにも拘わらず、です。

  

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