2014年10月5日 先々週、26日の金曜日に、埼玉県日高市の、「巾着田」 私は巾着田「曼珠沙華まつり」のことは昨年知って、今年の日記帳に○を付けておいたのでした。時季を外れたら一年待たなければなりません。因みに来年の○は、相馬野馬追です。 曼珠沙華という花を私は好きでなかったのですが、10年余り前、奈良県の明日香村で万葉集に関する催しがあって、その行程で、野辺に咲く一群を、心に染みて美しいと思いました。その時以来好きになりました。(彼岸花、というとふつうの花になりますね。曼珠沙華がふさわしいと思います)
「若光」を中心にこの地の開拓を始めたのが716年で、再来年はその1300年に当たります。 浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎、各氏の記念植樹があり、大きく育っています。これらの方々はその後、「総理大臣」になっています。中でも目を引くのは、李垠(イ ウン)・李方子(イ バンジャ)お二人の、並んだ二本の樹です。李方子妃はご承知の通り、梨本宮方子女王、昭和天皇のお妃としても取りざたされたそうです。香淳皇后の御従姉妹です。
面白い記事を発見しました。
生活雑器である「茶碗」に『美』を見出したのも、日本人でした。茶の宗匠たちであり武士でした。(だからこそ陶工の価値を知り、“連行”したのです) 日本人は、 私は、国家であれ、個人であれ、
そう、確信します。
それまで待たずとも、特別な日でなく、ぶらり参詣で良いと思います。下村博文文部科学大臣など最適と思います。史跡を文科大臣が訪れるのに理由付けは不要でしょう。(お名前もすばらしい)
『李 方子』 (小田部雄次著 ミネルヴァ書房)に、下のような興味を引く記載があります。
「李鍵は昭和二〇年(一九四五)の敗戦後、桃山虔一の日本名で帰化する。」という文節が目に留まり、「桃山虔一」で検索してみました。李鍵は高宗の孫であり、李垠の甥になります。Wikipedia で読むと、もっともっと知りたい人物です。
p.252-253には、下の文章があります。 す。
基氏とは田内基(尹基)氏で、尹致浩・田内千鶴子ご夫妻の長男です。ご両親の作られた「木浦共生園」の園長、そして「こころの家族」の理事長です。(2003年に私が木浦を訪ねた時の園長は鄭愛羅(チョン エラ)先生で、おそらく現在もそうなのだろうと思います。尹致浩・田内千鶴子ご夫妻の外孫にあたるとのことでした。基氏の姪ということでしょうか。自然な日本語を使われました) 李方子妃が受洗されたとは知りませんでした。この基氏の発言からはカトリックのように思えますが、どうなのでしょうか。基氏ご自身はカトリックではないと思います。父君・尹致浩先生は「伝道師」でした。 韓雲史(ハン・ウンサ)氏の大著『阿魯雲伝』(上巻「玄界灘は知っている」 下巻「玄界灘は語らず」)の中に大意次の言葉がありました。「良い日本人もいた。悪い日本人もいた。良い朝鮮人もいた。悪い朝鮮人もいた。それだけのことだ」 私自身、最近の韓国にはうんざりしています。多くの日本人が同じ感じに見えます。この修復は、年単位では不可能と思います。日本人は、深く傷めつけられました。日本人の傷みは、「良い日本人もいた。悪い日本人もいた。良い朝鮮人もいた。悪い朝鮮人もいた」という当然のことを一切認めない日本への攻撃でした。その中核に朝日新聞がありました。朝日の一連の記事は、韓国人を煽動したことにおいて、大きな害悪であったと思います。朝日新聞を先頭に、煽った、政治家、弁護士、ジャーナリストたちの目的は、「日韓の離反」でした。その目的は、おそらく20年30年、あるいは50年、効力を保つ、見事な成果を上げました。 私は20回以上韓国を旅しています。一度として不愉快な体験はありません。韓国のみなさん、親切でした。おそらく今もそれは変わりないと思います。しかし私の気持ちが萎えました。
朴槿恵韓国大統領に関するコラムをめぐる問題で、ソウル中央地検は8日、産經新聞加藤達也前ソウル支局長を在宅起訴しました。三度の事情聴取を受けた上でのことです。 8月上旬にこの問題が明らかになった時、私の第一感は、「朴大統領を陥れようとする者たちの策謀だ」でした。しかしその後の報道は、ソウル検察の動きには青瓦台(大統領府)の意向が強く働いている、つまり朴大統領の意志である、とのことでした。 それでも私は、大統領への忠誠を示す者の中に、ほくそ笑んでいる人物がいると思います。
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