2014年10月5日
高麗神社のこと

追記 2014.10.08
追々記 2014.10.12

 

先々週、26日の金曜日に、埼玉県日高市の、「巾着田」
http://www.kinchakuda.com/
と、「高麗神社」
http://www.komajinja.or.jp/
を訪ねました。
特に前者は、休日は大変な人出になるというので、それを避けて、金曜日に行きました。
西武「高麗駅」から巾着田へは近いのですが、巾着田から高麗神社へはタクシーがまったく見当たらず、相当の距離を歩くしかありませんでした。

私は巾着田「曼珠沙華まつり」のことは昨年知って、今年の日記帳に○を付けておいたのでした。時季を外れたら一年待たなければなりません。因みに来年の○は、相馬野馬追です。

曼珠沙華という花を私は好きでなかったのですが、10年余り前、奈良県の明日香村で万葉集に関する催しがあって、その行程で、野辺に咲く一群を、心に染みて美しいと思いました。その時以来好きになりました。(彼岸花、というとふつうの花になりますね。曼珠沙華がふさわしいと思います)


高麗神社のことは30年も前から気になっていました。ごく普通に田舎にある程度の小振りな社で、周辺に店の一つもありません。祭神は、唐と新羅によって滅ぼされた、高句麗王「若光」で、若光の子孫が代々宮司を務めています。現宮司は第60代になる、ということです。
http://www.komajinja.or.jp/rekisi.html

「若光」を中心にこの地の開拓を始めたのが716年で、再来年はその1300年に当たります。

拡大

浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎、各氏の記念植樹があり、大きく育っています。これらの方々はその後、「総理大臣」になっています。中でも目を引くのは、李垠(イ ウン)・李方子(イ バンジャ)お二人の、並んだ二本の樹です。李方子妃はご承知の通り、梨本宮方子女王、昭和天皇のお妃としても取りざたされたそうです。香淳皇后の御従姉妹です。

 

 


道路を挟んでその真向かいに、三笠宮崇仁親王殿下の御手植樹があります。


この社は1300年というものを、日本の中で生き続けてきました。しかも直系を守ってです。(宮司さんは「高麗」姓。現職は、高麗文康氏)

追記


佐賀県有田町に『陶山神社』があります。有田焼の陶祖として李参平を記念し、李氏が祭神ではありませんが、実際に訪れてみると、李参平を祀っているかのような印象を受けます。
http://www.arita-toso.com/

面白い記事を発見しました。
http://japanese.joins.com/article/676/179676.html
この中でノ・ジェヒョン記者は珍しく自らを顧みています。

壬辰倭乱当時に日本に連行されなかった陶工が朝鮮の地にはるかに多くいたはずだが、なぜ朝鮮の陶磁器産業は大きく発展せず世界的な名声を得ることもできなかったのか、子孫にきちんと伝授されなかったのか、先祖を恨めしく思ったりもした。
切ない質問を投じる。当時朝鮮に残った数多くの陶工のうち、私たちが記憶する人は果たして一人でもいるだろうか。


当時の朝鮮における陶工は、最下層、下賎の民でした。日本に“連行”されたものの、待遇は故国に比し雲泥に良かったのです。大事にされたのです。帰りたがる者はいなかったと何処かで読んだことがあります。士分に取り立てられた者もいます。(薩摩の沈壽官など)

生活雑器である「茶碗」に『美』を見出したのも、日本人でした。茶の宗匠たちであり武士でした。(だからこそ陶工の価値を知り、“連行”したのです)
近年では、「安宅コレクション」のように、大商社一個を消滅に至らしめた(原因はそれだけではないでしょうが)人もいます。
http://www.moco.or.jp/products/collection/

日本人は、
  良いものを認め、
  感謝し、
  保存してきた
と思います。

私は、国家であれ、個人であれ、

  • 品のよい者が残る (下品より上品が残っていく、長いスパンで見れば)

  • 悪口を言うより、良い所は認め、受け入れ、感謝する者が、残っていく

そう、確信します。


もう一度「高麗神社」に戻りますが、再来年の1300年記念祭、総理大臣は無理でしょうが、政府高官が参列してみてはどうですか?

それまで待たずとも、特別な日でなく、ぶらり参詣で良いと思います。下村博文文部科学大臣など最適と思います。史跡を文科大臣が訪れるのに理由付けは不要でしょう。(お名前もすばらしい)


[追記]

『李 方子』 (小田部雄次著 ミネルヴァ書房)に、下のような興味を引く記載があります。

p.92
李堈(イ カン)を嗣いだのが、李鍵(イ コン)であり、その夫人誠子は、高松の松平胖長女、広橋真光伯爵養女である。松平胖夫人の俊子は、方子の叔母(母・伊都子の実妹)であり、広橋真光夫人の規子は、方子の実妹である。しかも、広橋真光の大叔母が方子の母方の祖母・栄子(伊都子の実母)である。李鍵は昭和二〇年(一九四五)の敗戦後、桃山虔一の日本名で帰化する。方子の母・伊都子の家系が、朝鮮王公族の「親日」化に大きな役割を果たしていたともいえる。

「李鍵は昭和二〇年(一九四五)の敗戦後、桃山虔一の日本名で帰化する。」という文節が目に留まり、「桃山虔一」で検索してみました。李鍵は高宗の孫であり、李垠の甥になります。Wikipedia で読むと、もっともっと知りたい人物です。


p.252-253には、下の文章があります。

す。

最後に、基氏はこう語った。
亡くなる数年前に、妃殿下は洗礼を受けました。昭和六〇年(一九八五)のことです。そして、妃殿下は全斗煥大統領に会い、明暉園の行く末を頼んだのです。社会福祉法人の運営を国が行うことは難しく、カトリックの修道会が明暉園を運営するようになったのです。初めからそういう運命だったかも知れません。今はただ、両手を合せてひたすら妃殿下の冥福をお祈りするばかりです。

基氏とは田内基(尹基)氏で、尹致浩・田内千鶴子ご夫妻の長男です。ご両親の作られた「木浦共生園」の園長、そして「こころの家族」の理事長です。(2003年に私が木浦を訪ねた時の園長は鄭愛羅(チョン エラ)先生で、おそらく現在もそうなのだろうと思います。尹致浩・田内千鶴子ご夫妻の外孫にあたるとのことでした。基氏の姪ということでしょうか。自然な日本語を使われました)

李方子妃が受洗されたとは知りませんでした。この基氏の発言からはカトリックのように思えますが、どうなのでしょうか。基氏ご自身はカトリックではないと思います。父君・尹致浩先生は「伝道師」でした。

韓雲史(ハン・ウンサ)氏の大著『阿魯雲伝』(上巻「玄界灘は知っている」 下巻「玄界灘は語らず」)の中に大意次の言葉がありました。「良い日本人もいた。悪い日本人もいた。良い朝鮮人もいた。悪い朝鮮人もいた。それだけのことだ」
どのページにあったか、正確に引用したく探しているのですが、再発見できません。そのうちに見付かるでしょうが、意味は上記で間違いないと思います。

私自身、最近の韓国にはうんざりしています。多くの日本人が同じ感じに見えます。この修復は、年単位では不可能と思います。日本人は、深く傷めつけられました。日本人の傷みは、「良い日本人もいた。悪い日本人もいた。良い朝鮮人もいた。悪い朝鮮人もいた」という当然のことを一切認めない日本への攻撃でした。その中核に朝日新聞がありました。朝日の一連の記事は、韓国人を煽動したことにおいて、大きな害悪であったと思います。朝日新聞を先頭に、煽った、政治家、弁護士、ジャーナリストたちの目的は、「日韓の離反」でした。その目的は、おそらく20年30年、あるいは50年、効力を保つ、見事な成果を上げました。

私は20回以上韓国を旅しています。一度として不愉快な体験はありません。韓国のみなさん、親切でした。おそらく今もそれは変わりないと思います。しかし私の気持ちが萎えました。


2014.10.12[追々記]

朴槿恵韓国大統領に関するコラムをめぐる問題で、ソウル中央地検は8日、産經新聞加藤達也前ソウル支局長を在宅起訴しました。三度の事情聴取を受けた上でのことです。

8月上旬にこの問題が明らかになった時、私の第一感は、「朴大統領を陥れようとする者たちの策謀だ」でした。しかしその後の報道は、ソウル検察の動きには青瓦台(大統領府)の意向が強く働いている、つまり朴大統領の意志である、とのことでした。

それでも私は、大統領への忠誠を示す者の中に、ほくそ笑んでいる人物がいると思います。


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