放水口

この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎年八万三千トンの米と甘蔗(かんしゃ)=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。・・・・このような巨大な土木工事をわずか三十二歳で設計に取りかかり、三十四歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の十倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。(李登輝元総統)

朝起きたら母がいなく、これはダムだなとすぐ思いました。遺書らしきものを見た途端、放水路だと思いました。今の記念館の場所に草履が脱いであって、これはダメだと思いました。 (お嬢様)

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自殺という言葉から受ける暗いものがありません。逃避の要素が微塵もなく、あるのは八田技師への強い思慕であり、この地への愛であります。 「日本へ帰る気のないことは、子供たちみんなに分かっていた」とお嬢様は語りました。それ故子供たちも冷静にそれを受容れ、納得したのだろうと想像します。その場所は、「ここしかなかった」のです。八田技師没後三年、御年46歳、昭和20年9月1日でした。

(記念館は左後方に隣接しています)

9月1日、台風が近づいていました。みんなが堰をを止めて下さって、下流で遺体があがったのです。(お嬢様)