63.国際標準規格の怪 2009年8月11日)
   
― 誰がために鐘はなる ―

   まだ会社で仕事をしていた頃のこと。定年退職して第二の職場に就いた会社は航空貨物を取り扱う中小企業だった。得意分野は本マグロ、うに、チェリー、牛肉など生鮮食料品をはじめ、高度工業製品の微細な部品であるICチップなど、何れも時間との勝負の品々を飛行機で運送することを専門にしていた。取扱商品の性格上、外国との交信はてきぱきとする必要があった。その当時、「ISO」と言う名前の「国際標準規格」を取得することが日本で盛んに宣伝されはじめていた。「ISO」規格の認定を受けていない会社は一流の会社とはみなされないという宣伝が効いて、私も真剣にその内容を調べ始めた。

   その標準規格どおりに仕事をすすめれば、確かに合理的であり無駄を省くこともできる。また、外国の会社とも共通の言語で仕事をこなしていけるので便利である。しかし、その一方で、私には一つの疑問が生じた。その規格というのは、一体、誰が誰のために作った規格なのだろうかということである。少なくとも日本の会社には、長い伝統と商慣習の中から編み出した取引の仕方がある。それを一切無視して新しい手法を取り入れることが、本当に会社にとって、また顧客にとっても利益があるのだろうか、と言うことである。

   簡単な例を挙げれば、日本では子供のころに習字を習い、日常生活でも色々の用途に使われている「書道半紙」がある。これは縦が33センチ、横が24センチである。この紙は日本人の生活の中でかなり広く使われてきた紙の大きさである。また、便箋も縦23センチ、横18センチである。ところがコンピューターを使い慣れてきた私は、いつの間にか用紙の大きさは、A4版(縦30センチ、横21センチ)とかB5版(縦26センチ、横18センチ)を抵抗なく使っていることに気づいた。これでいいのかな、と。

   ちょうどそのようなことを考えていた時、大阪系の銀行の子会社で、ISOの認定を行う専門会社の社員が説明に来たので話を聞いた。その派遣社員が言った。あらゆる事務処理、保管、その他細かいところまで国際規格の認定をパスしないと、世界に通用する一流会社とはみなされないと。しかし、誰が何のためにそのような国際規格を取り決めたのか。果たして日本は、その国際規格が決定される前に、その審査会に出席して日本の商習慣や伝統を伝え、基準作りの段階から日本で使用中の規格を採用するように主張したことがあるのかと質したが、その宣伝員の答えは、国際的に決まった規格であり、それに従う以外に選択の余地はないという。こんな腰抜けを相手にしても始まらないと思った。彼は私の言いた本音を理解できなかったのだ。

   話はとぶが、FINA(国際水泳連盟)という組織がある。本部はスイス・ローザンヌにあり、水泳競技の国際組織である。この国際水泳連盟は公式大会に関して細かい基準を定め、それらがすべて満たされた条件で行われたレースに限り記録を公認しているという(Wikipedia)。
   今年の5月10日に日豪対抗水泳大会が行われ、男子200メートル背泳ぎで入江陵介(19)=近大=が1分52秒86の記録を出した。日本水連はこれを日本記録として公認した。これはそれまでの世界記録を1秒08も上回る世界新記録であった。ところが、6月22日、FINAはこのタイムを世界記録と公認しないと発表した。そのために日本記録が世界記録より早いと言う「ねじれ現象」が確定した。
   FINAが世界記録として認定しない理由は、入江が着用した水着の材質が
国際水練の水着規定「ドバイ宣言」で許可された水着ではなかったことがその理由だという。水泳選手は誰でも世界新記録を目指してがんばるものである。その選手たちの努力を国際水泳連盟が阻害するのは本末転倒ではないか。

   話は去年の北京オリンピックにさかのぼるが、昨年8月に行われた北京五輪の水泳競技で、英スピード社製「レーザー・レーサー」(LR)の水着を着た選手が世界記録25のうち、23がLR着用選手によるものであった。
   その屈辱を味わった日本のメーカーは五輪後、素材や形態を改良する開発を本格化し、LRに対抗して登場させたのが、水や空気を通さないラバー系素材の水着だった。特に独自の運動機能を加えたデサント社製は、今年4月の日本選手権で13の日本記録を生んだという。こうした状況の中で入江が5月10日に男子200メートル背泳ぎで日本新記録を出したのである。入江が記録を出した時点ではFINAの新ルールによる水着の審査結果は出ていなかった。どの水着がOKで、どれがダメなのか選手は何も知らされていなかった。知らないで泳いで1ヶ月以上たってダメとはあまりにも理不尽すぎる。デサント社によると、FINAが世界新記録を認めない理由として、「水着と体の間に空気をためる構造があったため」と見ている。

   FINAは日本のメーカーの素材開発競争が急ピッチで実績を上げていることから、メーカーの開発競争に一定の歯止めをかけようとしていたようだ。今年3月には水着の厚さや浮力などを制限した新規定を発表(注参照)。今後は認可した水着以外の国際大会での使用を禁じ、世界記録も認可水着のみ公認する方針を示した。
FINAの審査結果は、ラバー系素材を狙い撃ちしたとも取れる内容で、デサント社はラバー系水着が認可されなかった理由を「水着と体の間に空気をためる構造があったため」とみて、再提出用に水着を改良したそうである。

   世界中を混乱させた水着問題だが、「レーザー・レーサー」(LR)を開発した英スピード社はFINAの公式スポンサーで親密な関係にあるという。LRを脅かすラバー水着の多くが、今回の審査で再提出を求められたのも不自然な感じもする。入江の記録もFINAにとって何か不利益でもあったのか、と勘ぐられても仕方ない。ミュンヘン五輪男子100メートル平泳ぎ金メダリストの田口信教氏(鹿屋体大教授)は、こう指摘する。「スタート前に審判が目の前で見て“その水着はダメ”と言ったのならわかるが、レースは成立している。理由は後付けで、相撲やボクシングで下った判定が覆らないように記録は公認すべきだ」と。

   FINAのこのような決定で、フランスのアラン・ベルナール選手も不快感をあらわにしたという。彼は男子100メートル自由形の世界記録が公認されなかったからだ。ベルナールは認可水着の発表が行われる前の4月、フランス選手権でアリーナ社製の水着を着用し、史上初めて47秒を切る46秒94をマークしていたからだ。フランス水泳連盟幹部は「この問題は終わったわけではない」と、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に異議申し立てする可能性を示唆した。
(この国際水泳連盟の一連の記述は、産経新聞09年6月1日〜24日に報道された入江選手の世界新記録をめぐる関連記事を小生の責任で編集しなおしたもの)

   話は変わるが、8月8日にNHKが放映した “激突・国際標準戦争 ニッポンは勝ち残れるか 追跡AtoZ”を見た。この番組はまさに時宜を得たすばらしい番組で、小生が「国際標準規格」について抱いてきた疑問、「一体、誰が何の目的で誰のために設定した規格なのか」を解明するのに役に立った。

   答えは、ヨーロッパのEU諸国(その中でもドイツが主導的役割を握っている)と企業の利益のために設けた規格で、それ以外の規格を持った製品や技術をよその国が国際市場へ参入する場合に不利となるような目的で設けた規格であるということだ。 何たる傲慢! 私利私欲の最たるものだ。

   今回放映された映像は、日本の電機業界のスペシャリストたちが世界に先駆けて、やっと実用化に漕ぎつけた世界最先端・超高圧送電システム(UHV)を国際標準に組み入れてもらうために、国際電気標準会議に対して涙ぐましい努力を払ってきた映像である。  
   「国際標準」を取得しようと万策を巡らせて闘ったのは、日本が世界に先駆けて長距離送電のために、1100ボルトを変圧器から鉄塔まで一環して完成させていたことだ。これは日本の電機業界のスペシャリスト、東京電力、東芝、日立、三菱が30年かけて実現化したもので、これまでの4倍の電力を一気に長距離へ送電することができる。その効用は20年で1000兆円の利益を齎すと見ている。

   現在、世界標準電圧に指定されている中に、1050Vと1200Vがある。しかし、そのいずれも20〜30年前に規格として指定されながら未完のままで実用化されていない。驚くべきことに、これは名ばかりの基準であることが判明した。ドイツ人関係者が実現の裏付けもないままに勝手に設定した標準で、その目的はEU以外の国の市場参入を難しくすることを狙って設定した規定であったと公言してはばからない。そのドイツ人は「国際標準を制するものだけが市場を制する。その標準と矛盾する基準があってはならない」という信念に基づいて、とにかく網を広げておいたのだ。国際標準という網を張って自由競争を阻む目的が裏に隠されていたのだ。

   日本の超高圧送電システム(UHV)1100VをIEC(国際電気標準会議)で認めてもらうためには、25カ国中の21カ国の賛成票が必要だが、ドイツ、スエーデン、スイス、インド、韓国の五カ国が反対の立場を表明していた。日本はいち早く中国やインド、アフリカなど広域の送電のためには日本独特の技術が必要だとして、30年前から民間電機業界のスペシャリストたちが共同で極秘裏に開発を進め、その実現化を果たした。この成果を具体的に示して中国政府を説得した。折から、中国政府は国内経済開発を急ピッチで進めるためには、中国国内に送電網を張り巡らせる必要に迫られていたので、日本の技術に飛びついてきたのだ。国際電気標準会議で中国は日本の生んだ1100Vの超高圧送電システムを支持することを正式に表明した。そればかりか会議の席上で、日本の技術を使って既に中国国内で送電網の建設が進んでいる様子をビデオ・テープで写して紹介した。さすがのドイツとスエーデンもこれには参ったのである。彼らの意中は中国を敵に回しては今後の中国市場で有利に商業活動ができなくなることを恐れたためである。ここで注意が必要だ。彼らは日本を恐れたのではないのだ。中国の市場経済力の魅力にひきつけられて不承不承、日本の1100Vの超高圧送電システム技術を認めたのだ。その結果、会議は多数決で日本の1100Vシステムを国際電気標準に認定したのだ。国際経済の場でも政治力が不可欠なことを如実に示している。
   外交とは、「自国の権益を最優先に考えて、それを最大限に確保できるように、あからさまにその実現に向けて、秘策をめぐらすことである」と私はある論文で発表したことがある。EUは、まさにそのことを地で行く姿を示しているではないか。

   日本の優秀な技術はまだこの他にも沢山ある。たとえば原子力発電設備(東芝)、高速鉄道新幹線のシステムと技術(日立)、リチウム電池自動車(三菱電機)など。それらを国際標準規格に認定させる努力が求められる。そのためには国際舞台で勝負に挑んでいく日本の体制作りが急務である。また、日本国民もそのことに協力し、国を動かす力とならなければならない。官民挙げて政治力・情報収集力・秘密漏洩防止策・技術成果の海外宣伝力などを向上させ、磨いていかなければならない。特に国際専門家会議の場で議決されるような国際的な標準規格を決める場合には、日本の代表もその会議において日本独自の主張を行い、標準規格を日本の実績に合わせた方向へ仕向ける力をもたなければならない。

   これからの国際標準規格は日本から発信するぐらいの意気込みをもって、官民挙げて邁進する必要がある。誰かの設定した規格をそのまま受け入れるだけではダメだ。日本がその規格を作り、世界中の人々にとってその恩恵を享受できるように計らい、その結果として日本にも莫大な利益を齎すように目的意識を持って対処することが望まれる。

以上

(注)国際水泳連の水着規定「ドバイ宣言」
1)素材の厚さは最大1ミリ
2)浮流億の効果は1ニュートン以下
3)内部に空気をためる構造にしてはならない
4)首や肩、足首を覆うモデルの禁止
5)重ね着の禁止
6)個人仕様モデルの作成禁止