淳仁天皇 第47代 733〜765(在位758〜764)

 事実上仲麻呂の計略によって擁立された天皇であったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。
仲麻呂は天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態はしだいに緊迫し、その権勢にも翳りがみえはじめた。琵琶湖畔の保有離宮で静養していた孝謙太上天皇は看護禅師、道鏡としだいに親密な関係になっていった。天皇がこれを見咎めると、上皇は激怒して翌六年平城京に戻るや、法華寺に出家して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じたのである。

 事態の急転に驚いた仲麻呂は孝謙太上天皇と対決する姿勢をとりつつ、自らの安泰を狙って天皇の御璽を奪取して天武天皇の孫にあたる塩焼王の擁立を策したともいわれる。仲麻呂による叛乱の企てはまもなく発覚し、上皇方から追討の兵を向けられるとともに、官位や藤原の姓、職分や功封も剥奪されることになった。仲麻呂は近江へと敗走したが、天平宝字八年九月、一族ともども捕らえられ、殺害された。

 中宮院にあった淳仁天皇も捕らえられ、仲麻呂との共謀を指弾されて淡路へと流された。そのため、天皇は淡路公、あるいは淡路廃帝と称される。
 天皇は天平神護元年(765)十月、配所より逃亡しようとして捕らえられ、翌日崩じた。天皇の亡骸は淡路陵(兵庫県南淡町)に葬られたとされる。

[以上、中公新書「歴代天皇総覧」による。]

御陵は生き物のサンクチュアリである。鳥たちの合奏が聴こえる。その元気さが凄い。樹木に手が加えられた様子がなく、「庭園」とは別次元の、生物への優しさがある。

淳仁天皇母大夫人当麻山背(ダイブニンタギマノヤマシロ)の墓

当麻山背の墓へ至る。「道」というものがない。それが素晴らしい。

大炊神社

天皇塚・大炊(おおい)神社
淡路配流後、ここ中島大屋所に住まわれたと云われる。配流の翌年天平神護元年(765)、この地で亡くなられたと伝えられる。

住民は今も霜よけの「こも」を編み、埋葬場所と伝えられる杉の木の根元にかけ、天皇の霊をお慰めしている。

犬養孝先生の名著『万葉の旅』は、万葉集本書がそうであるように、家持の
新たしき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
の解説で大部を終えるのであるが、家持はこの歌ののち26年を生きたにもかかわらず一編の歌も残していないと記している。

『・・・・時の淳仁天皇は五年後の天平宝字八年十月、仲麻呂の陰謀に組したかどで孝謙(称徳)女帝によって廃帝として淡路に幽閉され、翌十月配所の脱出がかなわず悶死した。いま淡路の福良に近い三原郡南淡町賀集の田園の間に陵がある。・・・・大和の初瀬で明るく出発した万葉はここにさびしい終焉をつげるのである。』(万葉の旅)

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