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木浦共生園 種 類 : 養護施設 設立背景 目的 児童現況
(共生園の案内リーフレットによる) |
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木浦は釜山から高速バスで五時間半の距離にある。 扶桑社『日本人の足跡B』“田内千鶴子”によれば、田内千鶴子は大正元年(1912年)10月31日、高知県土佐郡(現在の高知市)で生まれた。木浦へ渡ったのは七歳の時だった。朝鮮総督府の木浦府庁に勤めていた父が家族を呼び寄せたためである。父は官吏、母は熱心なキリスト教徒の助産婦だった。 「千鶴子が二十歳を迎えた年、父の徳治は亡くなり、母の春が助産婦として家計を支えた。千鶴子も木浦市で当時、韓国人女子に中等教育を行う唯一の学校だった木浦貞明女学校に音楽教師として働きだす。 「ようやく健康を取り戻した昭和11年(1936年)五月のある日、千鶴子に運命の出会いが訪れる。市内の親をなくした子供たちを集め、養育していた韓国人伝道師、尹致浩(ユンチホ)。街では“こじき大将”と呼ばれる男だった。」(日本人の足跡) −−−−−−−−−− この「こじき大将」と結婚した田内千鶴子は、「木浦のオモニ(お母さん)」と呼ばれている。 私が「木浦共生園」へ行ってみたくなったのは、結局「渇き」のようなものだった。 訪れたとき、時刻のせいか子供たちは外にいなかった。寮の中へずかずか入るには、言葉ができなかった。結局外をウロキョロした。事務室を覗いたら声をかけられ、園長先生とお話しできたのが幸いだった。 (画像解説中の「 」内の引用文は、特に断わらぬかぎり「日本人の足跡」のものである。) |
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田内千鶴子(1912-1968) |
尹致浩(ユンチホ) |
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おそらくこの園の発祥を標す碑であると思う。 |
小渕恵三総理大臣より梅20本が贈られたとある。 |
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オモニの碑 |
1960年の共生園 |
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児童宿舎 |
図書室入口 |
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教会全景 |
教会入口 |
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JALハウスの入口プレート |
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園長・鄭愛羅(チョン エラ)先生と私。 |
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共生園の裏道。人が行き交いできる程度の細い道。今ある住いを見ても、決して豊かな人々の住む地域とは思えない。 |
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ノムラさん おはようございます、A.T.です。 「木浦に行く。」とノムラさんがおっしゃっていた意味がやっと解りました。 お話をお聞きした時はピンと来ていなかったのですが、今回の旅行記を拝見してはじめて理解しました。 田内千鶴子さんの話は、何年か前、BSの番組で見て私も知っていました。 その番組では、一人の日本人の女性が、ご主人の意思を継ぎ韓国の孤児の為、リヤカ−をひいて食べ物の調達をしたり、大変な苦労を重ね、孤児達の「オモニ」として共生園をどう維持していたか、又、その祖母の意思を継ぎ、大学を卒業したばかりのお孫さんが、共生園を受け継ぎ、今又奮闘されているかをルポした番組で、深く感動した憶いがあります。 ノムラさんが写された写真を拝見し、番組で拝見したお孫さんが、その後ご立派な園長様として活躍なさっていらっしゃる様子に又、感動いたしております。 良いご旅行でしたね。ありがとうございました。 2003.5.16 A.T. |