2006/08/20
皆さん、こんにちは。
実際には、どこで死んだのか、本当の場所も日も分からないのです。生きたかったでしょう。しかし死んでゆきました。次兄は、兄さんの死んだのは六月二日だと思う、といいます。根拠は唯一、満州にいた次兄にその日耐えられぬ程の胸苦しさが襲い、ああ兄貴がいま死んでいるのだ、そう感じたというのです。自分にとって兄貴の命日は六月二日だ、と云います。私もそれを信じるのです。 かつて、自分の意志でなく死んでゆかねばならなかった多くの人々がいました。 小泉総理は総理就任最初の年、8月13日に、靖国参拝しました。参拝のあと記者団との一問一答で、このように語っています。
私は、兄は「無念」のうちに死んだと思います。生きて、父母や婚約者の下に帰りたかったと思います。靖国に祀られる大東亜戦争の死者213万余柱の多くが、そうであったと思います。それが適いませんでした。それ故、そこに祀られている御霊以上に平和を願っているものはないと思うのです。残されて参る者もそうでしょう。平和であれば実現し得た人生が遮断された。無念にも遮断された。私が靖国で拝礼するとき、聞こえるのは「平和であってくれ。私のようには死なないでくれ」の声であり、私が祈るのもまた「平和」です。 平和を願うのは当り前のことであって、“平和主義者”の専売特許ではありません。「平和を宣言すれば平和を保てる」とか「非武装宣言すれば平和でいられる」というような、世迷言を信じないだけです。
母はその生涯、私が長兄の年を超えた後も、私をよく「ヒロミ」と呼びました。呼んでいるのは私、かつよしなのです。しかし口からはヒロミという名が出る。その度に私は、母の兄への思いの強さと、失った悲しみの深さを知りました。母の無念を知りました。 「無念」という言葉を使われたもう一人の方がいらっしゃいます。皇后様。
長兄と私が一緒だったのは一年くらいだろうと姉は言います。私にはだから兄の記憶はありません。しかし、お前を本当によく可愛がった、と姉は言います。昭和20年7月4日早朝の徳島大空襲の中、一切が焼失したのですが、住吉川に浸かりつつ母が守った数葉の写真の中に下のものがあります。私の生後80日、初節句のときらしいです。
この中によく見えないですが立派な兜があって、それは長兄が飾ったものであると姉は言います。 |