(* カトリック信徒仲間へのメールです。この三日前、8月13日、小泉総理は靖国を参拝しました)


2001/08/16 (木) 22:29

小泉総理と私は同い年です。自由党の小澤党首も同年です。
その小泉総理が若かりし時、涙して読んだという
「あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記」(海軍飛行予備学生第十四期会編、毎日新聞社)
というのが、私の手元にもあります。昭和41年9月刊、360円のものです。24歳、私は大阪にいました。小泉さんも、同じ頃に読まれたのでしょう。

私が涙したかどうか、記憶にありません。しかし相当に精読したらしく、詳かく傍線が引かれています。中でも一読胸を突いたのは「林 尹夫」という方のページでした。
(はやし ただお、大正11年3月30日生 長野県 京都帝大文学部西洋史学科。昭和20年7月28日四国東方海上にて夜間哨戒中戦死)
つまり、23歳で散ったことになります。





−−−以下、林 尹夫氏の文章、「あゝ同期の桜」よりの断片−−−

 殉教ないし犠牲は、自覚のクライマックスでなさるべきだ。自己喪失の極限が、犠牲たることに何の意味があろうか。

 辛いのは、死ぬことより生きることなのだ。生のクライマックスで、生が切断される。人生の幕がおりる。

 俺はここにはっきり書いておきたい。この日記に思索的な色彩を与えぬと。この日記は要するに「ゲロ」のはきすて所という役目をもつにすぎないのである。現在の生活に対する憤懣を思想に還元するなどというまわりくどいことを抜きにして、直接吐きすてるのがこの日記なのだ。心の憂さの捨てどころなのだ。

 今年の秋は、さびしく冷たく風がふきすさび、のこるものは何もなくなろう。そこにのこる人は、ちょうど今宵のような冷たい風がふき、松がなる音をききながら、泣くにもなけぬさびしさにたえきれぬようになろう。
 お気の毒だが、私はもうあなたがたとは縁なき者なのだ。我等とともに生活しうる者は、今年の夏まで生きぬ者に限られるのだ。

−−−「あゝ同期の桜」よりの断片、終−−−


「我等とともに生活しうる者は、今年の夏まで生きぬ者に限られるのだ。」
これは、恐ろしく強い言葉でした。絶叫と言えるものでした。

昭和42年2月、林尹夫氏の兄君 林克也氏によって尹夫氏の日記を中心とする遺稿集「わがいのち月明に燃ゆ」が刊行されました(筑摩書房)。「あゝ同期の桜」の延70名近い学徒の中で、林氏の名を覚えていたのは、やはりその文章の強さ故であるでしょう。


−−−「わがいのち 月明に燃ゆ」よりの断片−−−

 教頭先生に二人の娘あり。土浦にありし時に、その姉より感情をのべし手紙を受けとり困惑せしこともありき。妹もすぐれた人だった。わが話しを、かたわらにて微笑みて聞きし乙女なり。・・・・汝らが上に、よき星のきたれかし。

(最後の便り、兄克也氏への)
 お手紙拝見しました。
 きていただくということ、お志しはありがたいのですが、私はあまりお目にかかりたくないのです。
 これはなにも、遠路はるばるきていただくのがお気の毒というわけで、こう言うのではありません。
 ほんとうのところ、いまのまま、なんのつながりもなく、一人で生活しうることを幸福に思い、また、楽しく思います。
 それだけで、もう充分ではないですか。

 我々が語りあったような局面が、日に日に現実となり、再建は、また我々が充分に語りあったような、苦しい努力によってのみ可能でしょう。
 我々はすでに、充分に話しあったわけではないですか。これ以上、なにをつけ加える必要がありましょう。
 我々がともに生活する段階はすぎました。

(中略)
 予期したものとはいえ、我々の予想が事実となるのは、さびしいですね。




−−−−−「わがいのち 月明に燃ゆ」よりの断片、終−−−−−


この最後の手紙は「我等とともに生活しうる者は、今年の夏まで生きぬ者に限られるのだ。」の心境に一致します。死んでゆかねばならぬ者の、生存する者への断絶感でしょうね。
実際には兄・克也氏は尹夫氏に会いに行きます。この本に添えられた林克也氏の手記「回想に生きる林尹夫」にこのように記されています。


−−−−−林 克也氏 「回想に生きる林尹夫」よりの断片−−−−−

(弟は)「こなくてもいい」(最後の便り参照)と言ってきた。これが逆に作用した。そして六月八日から十二日まで美保基地の彼の宿舎で過した。島田時代に家にきた十三期と十四期の顔見知りの士官たちが集って盛大な宴会もやってくれた。
 そのあと数回、兄弟二人して夜になると夜見ケ浜の海岸で語りあった。
(中略)
 二人はここで素直に日本とアジア、そして世界を論じあった。もはや思い残すことのないようにと考えて討論をした。私はここで言った。「死んではだめだ。俺は死んではならぬと決心して行動してくれ」と。
 弟は「もうぜんぶ終ったのだ。だめだよ兄さん」と答え、いきなり優しく、きつく私を抱きしめた。

(中略)
 これが二人の永別だった。

−−−林 克也氏 「回想に生きる林尹夫」よりの断片、終−−−


その翌月、八月十五日の18日前に、林尹夫氏の搭乗機は撃墜されます。(この遺稿集を「わがいのち 月明に燃ゆ」とした理由も、兄君によって語られています。)

以上、長々と引用しました。私の長兄・博美も、同じ23歳で戦死しました。

八月十五日、今年の靖国神社は例年にもまして大勢の人が集りました。
前々日、小泉純一郎内閣総理大臣は靖国神社参拝のあと、
「無念だったでしょう」
と語りました。今年も繰り返された靖国問題のドタバタの中で、この一言が、私にとっては真実でした。そしてこの一言故に、私は小泉さんの「真・まこと」を信じるのです。

みんな、死にたくなかったでしょう。生きたかったでしょう。しかし「無念にも」死んでゆかねばならなかったのです。その人たちの鎮魂のため、わが兄の為に、私は祈ります。祈るのは当然、「無念にも死んでゆかねばならぬ」社会が再び来ないように。「戦争」は無論です。でも、「戦争」の中だけではないでしょう。頻発する幼児への殺傷、虐待。幼子たちの無念を、神は如何にお受けとめなのか。戦時中よりももっとおぞましい精神の荒廃が、今の私たち日本にあるのかも知れません。カトリック教会はこのようなことについてこそ、根本的・本質的な「預言」を語らねばならないでしょう。新聞の社説や雑誌の評論でありふれた意見は、要らぬことです。

  かくばかりみにくき国となりたれば
  捧げし人のただに惜しまる

      (小堀桂一郎氏の紹介する某戦争未亡人の歌)