聖母マリア、教会一致運動、及びその教義
パウロ 金 昌烈 司教
(解説) 川 崎 重 行 |
このテーマの主題はあまりにも深遠で計り知れない重要性を帯びています。それ故、私たちと教会共同体のうちに働く聖霊のみ業に対するありとあらゆる障壁を取り除くべく、私たちには倍旧の努力が求められます。神の恩寵により、第二バチカン公会議は救いの計画におけるマリアの働きと聖母と教会との関係について、私たちに啓蒙と解明をもたらしました。これらの教えは教会の神秘的な聖職位階制度のあり方と信徒及び聖職者に関する教えの後に、教会憲章の末尾で見出すことができます。聖霊は明らかに多くの神学者、とりわけ、マリアに関する教えを神の民に広める公会議の教父たちに影響を与えました。私は賜物であるこの教えが与えられたことを、聖三位に対し、絶え間なく感謝の意を表してまいりました。
しかしながら、教父たちが公会議に注ぎ込んだ実に貴重な働きと努力に心からの敬意を表する一方、私は事態の進展に何か重大なものが欠けているという感覚と最終文書へと導いた周囲の状況に不満の念を抑えがたかったことも告白せざるを得ません。 そのような経緯により、私は二年前にマリアがあらゆる恩寵と弁護にかかわる共贖者であり、恩恵の仲介者であるという教義を宣べ伝えるための恩恵の執り成し手、マリアの人民の声運動 (Vox Popli Mariae Mediatrici) のことを耳にしたとき、ただごとではない悦びを感じたものでした。感謝の心を抱きつつ、公会議教父の過度の慎重さが原因となったマリアに関する教えの不足を補うため、この運動に神のみ摂理が働いているものと私は理解いたしました。私たち人間には聖霊のみ旨を完全に理解することができません。したがって、限界を伴う人間には、たとえ、それが公会議の教父であろうとも、完璧で誤りのない方法で聖霊のみ旨を解釈することは不可能であると言わざるを得ないでしょう。今、私が申し上げねばならぬことは、その仮定を前提としております。マリア関連の文書に関して、すでに私はその内容及び、それが認可され普及されるに至った事態の進展のいずれにも不満をいだいていることを指摘いたしました。以下に挙げることが私が不満に思う理由であります。 1. 何よりもまず、神学担当準備会によって用意された草稿がマリアに特化した独自の憲章として提出されたにもかかわらず、運命とも言える幾多の変遷を経て、ついに四十箇条まで減少し、いわゆる教会憲章に付加されるだけに終わってしまったことです。(教会憲章にこれを組み入れることの賛否に関しては、賛成1,114、反対 1,074、無効票5 でした。)通常、公会議の総会に提出される議題は投票によって90% 以上の賛成をもって可決されます。しかし、私が聞いたところでは、公会議発足以来、投票結果が真っ二つに割れたのは今回が初めてとのことです。私は神学担当準備会によって、独自の憲章として立案されたマリアに関する文書が本来の意向通りに採決され発表に至らなかったことに大きな喪失感を味わいました。 2. 第二に、ようやく公表された文書に目を通した私はマリアの、執り成し手という称号が決定された過程を知り、悲しい思いを抱きました。なぜならば、執り成し手という称号が実に不承不承に認められたと伝聞するからです。これでは 共贖者という肩書きについては言わずもがなであります。 3. 最後の理由は、教皇パウロ六世が「教会の母という肩書きがマリアに付与されるべきである」との願望を明確かつ強烈に表明されたにもかかわらず、公会議教父はそれを無視してしまったことです。このために、公会議における第三会議の最終日、マリアのバジリカの奉献の祝日にあたる1964年11月21日、教皇ご自身が厳粛に教会憲章を認め、公布され、そのとき教皇はその同じ場所で、教皇自発教令により、マリアを正式に教会の母とする旨を宣言されました。私は教皇のとられた行動をニュースで知ったときにこみ上げてきた公会議教父への不満の念を今でも鮮明に思い出すことができます。公会議教父のためらいがちで懐柔的な態度を作った理由は、イエズスが唯一の仲介者であるという教義が危うくなりかねず、購いに関するマリアの役割を強調すると、芳しからぬ結果を招来し、必ずや袂を分かった私たちの兄弟たちに嫌な感情を引き起こす原因となるに違いない、という不安によるものでした。 韓国のカトリック教会に関する限り、次の点においては全く問題はございません。すなわち、イエズス・キリストが神と人類の唯一の仲介者であるという点です。韓国のカトリック信徒はただ一人として、この根本的教義について如何なる疑いも抱きません。更に言及すれば、この地上に、この啓示の真理を否定したり、疑ったりするカトリック信徒が出現する可能性はあり得ないのです。公会議教父がこの点を気遣っていたのであれば、そのような懸念は根拠のないものであったと言わざるを得ません。教導権の正しく、適切な指導が常に必要であることは事実です。しかし、二千年という歴史を通じて、神の民のうちでキリストが神との唯一の仲介者であるのを疑った者も、キリストとマリアが平等の地位に立つ仲介者であると断言した者も一人として存在しません。したがって、私の見解では、公会議教父に見られた過度の慎重さは主にプロテスタント各派を刺激したり、ますますカトリック教会との関係が不和になることを恐れたが故に生じたものであると思います。プロテスタントとの対話においては相手を憤激させるような要素を何も差し挟まないことが基本的常識と考えられていました。 しかし、マリアの教義と信心の事柄に及びますと、如何に注意深く、如才なくやろうとしても、また、如何に融和的な態度で対話をしようとしても、実りのない結果に終わるのです。私が申し上げることは、韓国における教会一致運動に十年以上携わったカトリック聖職者としての私の経験に基づくものです。次のような疑問、すなわち、マリアの役割と称号に関する弱々しく曖昧な説明がどれほど教会一致運動に貢献したのかという疑問が生ずるはずです。逆に、マリアの真の役割について確信を持って一致していた公会議教父が聖母に付与して然るべき称号を与えていたとして、それが教会一致運動に不利な影響をもたらすことになったと誰が言えましょう。今日、私がここで力説したいのは、まさにこの点なのです。韓国のカトリック司教団はキリスト教他宗派との対話促進委員会の担当者に私を任命しました。私がここで申し上げることは、韓国における教会一致運動によって立証されています。 1995年に実施された大韓民国人口調査によると、全人口44,850,000人のうち、カトリック信者数は8%にあたる3,600,000人でした。20を超えるプロテスタント主流各派と170のプロテスタント各派とを合わせると、キリスト信者の数は全人口の20%にあたる8,760,000人でした。カトリック教会以外に韓国における教会一致運動に参加している他宗派は救世軍、英国国教会、福音派、ルーテル派、メソジスト派、東方正教会及び長老教会であり、彼らは教会一致週間に祈りの集いを開きます。さらに、時として、人類発展と社会的プロジェクトに関して互いに協力します。彼らとの一致に向けた対話は、字義通りの厳密な意味では、事実上ないも同然です。それよりも、むしろ力を入れているのは互いの正当な信仰の推進です。 韓国では、深い亀裂がカトリック教会をプロテスタントから遠ざけています。誤解、無知、教義についての偏見、秘跡、典礼、信心及びカトリック教会のしきたりが非常に大きな要因となっております。マリアに関するカトリック教会の教義と伝統が教皇制度同様にプロテスタントに対する巨大な障壁となっているのです。プロテスタントは、マリアに関する私たちの教義を激しく否定し、カトリックの信仰を非難します。それは単に、彼らが私たちの主張や教えを知らないから、という問題ではありません。プロテスタントの神学者や指導者はカトリック教会への不満を一つひとつを秩序立てて攻撃する前に、自分たちの信徒にマリアに関する四つの教義の正確な概要を述べる必要があるのです。韓国の数多くのプロテスタントははじめからマリアに反対し、マリア崇拝をするとしてカトリック教会を非難する習性があります。 悲しいことではありますが、時として、私たちがマリアに関する教義の全てとそれに続く典礼と信仰を完全に否認する以外に、やむことを知らぬキリスト教他宗派からの不快な批判を沈静化させることはできないかのように思われることもあります。したがって、マリアの様々な役割や称号を論じるにあたり、公会議教父側も用心と自制とに多大な努力を払ったのですが、その試みも韓国における教会一致運動には結果的に全く何の役にもたたなかったのです。逆に、マリアの栄光が完全かつ明白に表されたとしても、一致運動に関する限り、事態が従来以上に悪化するということもなかったと断言できます。たとえカトリック教会がマリアの四つの教義を完全に否認したとしても、このことがプロテスタントをほんの少しでもカトリック教会に近づけることにはならないでしょうし、カトリックとの親善や友好関係の構築に貢献することはありません。仮に教皇聖下に母なるマリアの執り成しを 共贖者、仲裁者、弁護者として厳かに定義していただき、私たちの目的が成就したとしても、韓国の教会一致運動は些かも不利な影響を受けることがないと私は確信いたします。 一方では、韓国のカトリック信徒の間には、マリアは神のみ前における自分たちの弁護者であるばかりではなく、あらゆる恩恵の仲介者であり、私たちの購いにおける特別なお方であり、かつても 共贖者としての独特な役割を担い、今でもその役割を担い続けている、という一致した見解があります。現在、韓国において、人民の声運動に支持表明をしない人々は、ヨーロッパで勉強した一部の司教と司祭だけでありましょう。しかし、教皇が権威をもって、そのことを宣言されるときには、おそらく、彼らもその公式の教えを進んで受け容れるものと思われます。実のところ、教会の教義で正式公布以前に、100%の支持を得たものはかつて一つもありません。教会の教父、神学者らが公布前に一致したことはまずありませんでした。しかし、カトリック教会全体に同意がある場合は何の問題も生じません。韓国に限らず、全世界において、第五のマリア教義を推し進める運動は、事実上、すでに人々の間ではぐくまれている聖母への忠誠心を反映したものであるというのが私の感ずるところであります。 私たちは今、聖霊と、聖霊の花嫁であるマリアの時代を生きています。教会一致は私たち人間の課題であるばかりでなく、何よりも聖霊とその花嫁であるマリアの課題です。長年の教会一致運動を通じて形成された体験に基づく天賦の直観が私にはあります。聖霊が一致の賜物をお与えになるとき、ご自分だけでその働きをされることを望まれないのです。これまでに膨大な時間と費用が費やされ、多くの活動がなされたにもかかわらず、第二バチカン公会議以降、一体、どれだけの真の教会一致が生まれたのかと問い正す必要があります。その問いに対する私の答えは否定的なものにならざるを得ません。聖霊はこの働きにおいて、あるいは私たちと結びつく他のどの働きにおいても、その実現に向けてマリアと離れて活動なさることはありません。 教皇パウロ六世は、マリアを「神の霊の永遠の住処」と描写されました。 韓国には「類が類を癒す」という諺があります。マリアのために教会一致運動が困難に遭遇するとすれば、そのときには、マリアの立場を弱めるよりもむしろ、この難題の解決はマリア本人によって模索されるに違いありません。「類が類を癒す」という諺が真なるものであることを示すの例として、羅州(ナジュ)にあるマリアの御像が流された血の涙のお話を引用することができます。羅州は光州(クァンジュ)教区にある町で、韓国の南西に位置しています。過去12年の間、頻繁にマリアの御像から血の涙を流された場所です。この出来事はまだ教区の裁治権者に正式に公認されていませんが、血の涙を流して嘆かれるナジュのマドンナは既に世界中に広く知られており、そこを訪れる国内外からの巡礼者は次第に増加し、大変な数にのぼっております。(編集部註・本論考が発表された時点で、12年間、聖母像から血の涙が流されていたという意味であり、聖母像の現在の状況、本論考の発表時期については不明。尚、所轄教区長からはこの出来事に否定的な見解が出されたが、杜撰な調査が問題となり、現在も紛糾を続けている模様) 西側諸国は旧ソビエト連邦に反対して、その政治的、外交的、軍事な力を結集させましたが、大半のカトリック信徒は、突然、共産主義の崩壊をもたらしたのはファティマの聖母であった、という点において教皇と考えを同じくしております。したがって、一見して不可能な課題とも思える教会一致も同じマリアの力によって起こりうるものであると主張できるのではないでしょうか。 私たちの教皇聖下、ヨハネ・パウロ二世(編集部註・当時)は、教会一致をご自分が教皇として取り組むべき最重要課題の一つに位置付ける、とおっしゃっておられます。事実、様々な行動、方策、ご自身が下される決断を通じて、このことを有言実行されています。教皇の努力は大いなる実りをもたらしており、私たちの主イエズス・キリストにおける一致という教皇の心からの願いは近い将来に達成されることでしょう。教皇の努力が軌道に乗り、この目標に向かって、恩恵の執り成し手、マリアの人民の声運動
(Vox Popli Mariae
Mediatrici) が、その目的を果たすこと、すなわち、教皇聖下によるこの新しい聖母教義の厳粛な宣言が成し遂げられることを私たちは祈りのうちに切望するものです。その日が来れば、一致の霊たる聖霊が、ついに新しい称号をもって敬われるその花嫁とともに、すべてのキリスト者に顔を向け、「来なさい」と大声で叫ばれることでしょう。そのようなクライマックスが訪れるのを、私は静かに願い、祈っているのです。
「金昌烈司教の論説の背景に関する解説」 川 崎 重 行 韓国・ナジュにおける聖母出現は当地の司教が否定的な声明を出したことにより、未だに激しい論議を呼んでいる。たしかに手抜き調査と批判されても仕方がない面もあったが、司教が判断したことである以上、それに従うべきであるという従順派と再調査を求める反発派がいがみ合っており、本誌でも過去にこの問題をめぐる論争が展開されたことがあった。しかし、編集部は聖母出現の真偽をめぐる論争は本誌の趣旨に非ずという見解を打ち出した。故に、ここではナジュの真偽に関してノーコメントという立場をとらせていただく。金司教が一つの例としてナジュの聖母に言及されているのは、お読みになればおわかりのように、 論説上の必要があったからである。本誌が積極的にナジュの聖母をサポートしているわけではないということを私は本誌スタッフの一人として、はじめに断っておきたい。 さて、金司教が力強くアピールされている聖母の新しい称号(共贖者)はカトリック教会の長い歴史を通じて脈々と語り継がれてきた信仰であるが、信仰箇条としてのドグマには定められていない。無原罪の宿りのドグマも19世紀後半まで、聖母の被昇天のドグマも20世紀中葉までは信ずべき教義とはされていなかった。しかし、この二つのドグマの誕生と聖母の出現が密接な関係にあることは興味深い事実である。後述するが、金司教の論説も、とある聖母出現と深いかかわりを持つものである。 ルルドで聖ベルナデッタに現われた聖母はご自分を「無原罪の宿り」と名乗られた。無学な少女にはその言葉の意味がわかりかねたが、この出来事はその後、彼女から司祭、司祭から司教へと報告され、当時の識者を驚嘆させた。ルルドの聖母出現(1858)が起こる4年前、教皇ピオ9世はex cathedraの権威をもって、無原罪の宿りをドグマとして正式に採択された。多少強引とも思われたその宣言にはかなりの反発もあったと聞くが、教皇によるこのドグマの発布はルルドの聖母によって裏書きされた。当時の世界は今日のようにインターネットもファックスもなく、通信技術が発達していなかった。聖座からの発表も全世界の教会の隅々まで浸透するには相当の歳月が必要であった。フランスの片田舎にすぎなかったルルドに住む無学な少女にとって最新の教義など知る由もなかった。しかし、いつの時代にも不信仰な人はいる。聖母の出現とそのメッセージが少女の狂言によるものとして激しい批判を加えた人も少なくなかったが、その後に出現したルルドの泉が不治の病に見舞われた数々の病人を癒し、少女の死後にその肉体が腐敗しないという聖人特有の神秘現象が起きるに至っては、反対意見もトーンダウンするしかなかったようである。今では、ルルドの聖母出現が教皇不可謬権を証明したという説が教会内の通説となっていると申しても過言にはあたらぬであろう。 ファティマで3人の牧童(そのうちの二人はすでに列福済み)に現われた聖母は幾つかの預言を残された。当時、泥沼にはまっており、誰の目にも終わりの見えなかった第一次世界大戦の終焉と「もし人々が悔い改めなければ」という条件付きで第二次世界大戦の勃発が聖母によって予告された。又、ロシアが人類を神から遠ざける恐ろしい誤謬を世界に撒き散らすことも牧童に告げられた。3人の子供たちに意味不明であったこの預言は後に唯物論、共産主義の台頭であることが判明した。実際にその後の人類の何割かはこの一見して温もりがありその実態は国家と世界の平和を蹂躙する恐ろしいイデオロギーの犠牲となった。我が国の教会は共産主義の恐ろしさを軽視しているように見える。そして、共産主義が神のみ旨に反する邪悪なものであるということに認識が足りないようにも思う。 ベトナムを例に考えてみよう。ベトナム戦争は多くの難民を生み出した。しかし、恐ろしい戦争から逃れるべく船に乗って国外に脱出した人の話はあまり聞かない。戦争が終わり、ようやく平和が訪れたと人々が思った矢先、共産主義による自由の弾圧が起こり、大勢の人々がボートピープルとなり国外脱出を試みた。しかし、その後に陸地を踏めた人の数は少なかった。大半の人々の命は太平洋の上で無残にも散っていった。数え切れない人々が船上で餓死した。餓死した人はまだましである。その他の人々は嵐による船の沈没により、サメの餌となったのである。戦争中も人々は辛うじて生きる活力を残していたが、戦争終結後にはそれを失った。戦争が終わってから人々が命がけで国外脱出をはからねばならなかったのは何故なのか。平和をもたらす共産主義によって人は解放されたはずであったのに。ある意味で、共産主義による支配は戦争以上に恐ろしいものである。そして、全てを唯物的に考える思考形態は神に対する冒涜でもある。 さて、ルルド同様、ファティマの聖母出現に対しても多くの人々が懐疑したが、大群衆の前で起きた太陽の大回転の奇跡によってその疑念は灰燼に帰した。しかし、その後もロシアは共産主義の世界的拡張を続け、平和は人類から遠のき、暗闇が世界を覆った。 教皇ピオ12世は1950年(聖年)の11月1日に聖母被昇天のドグマを公式に宣言された。不幸にも人類の罪故にファティマの預言通り実現してしまった第二次世界大戦が終わり、ナチスと妥協したという誤解のもとに不運にも世界中の平和主義者から汚名を着せられたピオ12世の心には、平和を希求する気持ちが人一倍強かったものと思われる。ピオ12世はご自分がファティマの太陽の奇跡をヴァティカンの庭で個人的に幻視する恵みにあずかった秘密を側近に打ち明け、自らの使命を全うすべく、カトリック教会にとって何百年の宿題となっていた被昇天のドグマを厳かに宣言されたのである。このドグマの誕生とファティマの出来事の関連性が取り沙汰される所以がここにある。このように聖母の出現は教会を助ける役割を果たしている。まさに聖母は「教会の母」である。 さて、金司教が強烈にアピールされる「聖母の第五のドグマ」(共贖者)もこの道に詳しい人が師の文章を目にすれば、これがアムステルダムの聖母出現に深くかかわるものであることがひと目でわかる。 1945年の3月25日(神のお告げの祭日)、アムステルダムに住むイーダ・ペールデマンという女性に聖母が出現したことは今や世界的に知られている。聖母はこの年の5月5日にオランダにおける第二次世界大戦が終わることを予告された。そして、その通りになった。聖母はその後もイーダに現われては数々のメッセージを託し、出現は1959年まで続いた。聖母のメッセージは主として霊的なものであり、それはある意味で教会に向けたものでもあったが、注目すべきこととして、第二ヴァティカン公会議の開催、ベルリンの壁の崩壊、冷戦体制における化学兵器の製造など、当時としては想像もできなかった事柄もその預言には含まれていた。数々の預言の中には、最近起きたインドネシアの大津波を思わせるものもあり、その恐ろしいまでの的中率から出現の真実性が囁かれてきた。 2002年5月31日、長年の調査結果をまとめたハーレム教区のヨゼフ・マリア・プント司教は司教書簡を出して、これらのメッセージが超自然性(天与のもの)に由来するとして、アムステルダムの聖母出現を公式に認可した。 ご存知の通り、教皇庁は私的啓示の裁定に関し、当該教区の司教にその権限を委ねている。この事実は「報告された出現、及び啓示の判断の方法と手続きに関する指針」と題する公文書の中で確認することができる。聖座は私的啓示の判断を所轄教区長に一任している。時として、教理聖省が司教判断に介入し、誤りの疑いのある声明を白紙撤回させることもあるが、特にそのような反応を示さない大半のケースでは、司教認可がそのまま教会認可となることをこの文書は教えている。 ルルドに聖母が現われた百年後、アムステルダムでは相変わらず聖母の出現が続いていた。聖母はイーダに将来のカトリック教会がご自分の役割をドグマとして宣言する日が来ることをこの年に予告された。その教義の内容は「マリアは神の救いの計画の当初より共贖者、仲介者、執りなし手である」というものである。そして、その教義は聖母に関する最終ドグマとなることも予告された。 数ある聖母出現の中で、聖母がドグマに関する預言をされたのは私の知りうる範囲ではアムステルダムだけである。そして、聖母は「( 共贖者という)この新しい称号のもとで私は世界を救うでしょう」とまで約束された。勿論、この「救う」という言葉がキリストによる「救い」と同義ではないことは明らかである。これは換言すれば、「私は世を神に立ち返らせ、御子の栄光を輝かせる影の立役者になる」という意味である。聖母はこのドグマを教会が採決した後に、地上には平和が訪れることも付け加えられた。しかし、このドグマをめぐって教会が混乱するという預言も警告として残された。 このドグマの採択を求めて、今、世界中で大規模な署名運動が展開されている。金司教が言及された「人民の声運動」はこの署名運動に連動するものである。私も署名をさせていただいたが、署名をしたのは私のような名もなき信徒だけではない。マザー・テレサをはじめ、パリやニューヨークの司教も署名した事実が報道されている。 ところで、「共贖者」の称号について反発するのはプロテスタントをはじめとするキリスト教他宗派のみにとどまらない。カトリック教会内部にも神学的な見地より聖母のこの称号にクレームをつける人が少なくない。それは「 共贖者」の「共」という文字が共同作業を連想させるためである。イエズス・キリストのみが世を購ったことに疑問を唱えるキリスト者は皆無であるが、その購いの業が聖母と共同でなされるとなれば、その教義はもはや異端であるという主張が出てくるのも自然の理である。しかし、「 共贖者」というのは決してキリストと同格なわけではなく、キリストの購いの業に協力する第一人者というのが本来の意味である。誤解を恐れるあまり、共贖者は「購いの協力者」と翻訳される場合もあるが、用語が統一されていない理由はどの訳語もしっくりしないからであろう。 さて、アムステルダムに現われた聖母は自らを「すべての民の母」と名乗られ、この称号はドグマとしてではなく信心の一つとして、出現の公認に先立って1996年に現地司教の承認を受けている。アムステルダムの聖母出現に関しては、インターネットにアクセスすれば、各国語の情報が多数入手できるが、日本語のホームページとしては、すべての民の御母普及の会が運営する下記のサイトを推奨しておきたい。 一部の信徒はアムステルダムの聖母出現を未だに不審なものとして警戒している。彼らはヴァティカン機関紙「オッセルバトーレノマーノ」に何十年も前にこの出現に否定的な記事が出たことを唯一の拠り所にしているが、どの聖母出現もそうであるように、教会は神秘現象に対して当初は極端に慎重な態度をとるのを通例とする。聖座は調査結果が出るまでの間は人々に公的巡礼や公的信心を控えるように要請する。しかし、ひとたび公認されれば、それまでの禁が解け、メッセージの流布や巡礼については自由となる。 聖ファウスチナにキリストが出現された話はあまりにも有名である。そのご絵はカトリック教会の至るところで見つけることができるが、当初、「神のいつくしみへの礼拝」(ファウスチナによって知れ渡った信心)は聖座によって禁じられていた。しかし、クラクフのカロル・ヴォイティワ大司教の強い意志により、ファウスチナの列福調査が開始されたことが契機となり、聖座は禁止を取り下げるに至った。アムステルダムのケースもこれによく似ていると言えよう。蛇足ながら、カロル・ヴォイティワ大司教はこの信心の禁止が解けた時、すでに枢機卿の地位にあり、その半年後には自らをヨハネ・パウロ2世と名乗り、歴史に名を刻む人となった。 アムステルダムに現われた聖母は地球儀の上に立ち、その背中には十字架が見えた。イーダの描写をもとに画家がその姿を絵にしたものが世界各地に出回っているが、有名な秋田の聖母像がこのご絵をモデルに製作されたのは単なる偶然とは思えない。その木彫りの聖母像から101回の涙が流される運命になろうとは、当時、誰も予想し得ぬことであった。 『聖母マリア像の涙』の著者、安田貞治神父(神言会)は秋田で起きた一連の不思議な出来事に立ち会った生き証人である。安田神父は1997年にローマにて開催された第二回国際マリア神学会議のゲストスピーカーとして招聘を受け、世界各国から参集した50名を超える枢機卿、司教らを含む約200名の参加者(司祭、神学者等)の前で講演を行った。 安田神父は「聖母像から流された涙は2000年前に十字架のもとで聖母が流された涙の再現である」との持論を述べられ、同時通訳を通して聴き入っていた参加者に深い感動を与えた。この会議は金司教も紹介された「民の声」を聖母の
共贖性のドグマに反映させることを主たる目的とし、その準備の一環として行われたものである。安田神父は「ルルドの聖母出現が無原罪のドグマと深く結びついているように、秋田の聖母出現も聖母の
共贖のドグマと深い関係があるように思う」と言明され、その根拠として、101回の涙の意味が天使の告げにより、聖書の権威をもって説明されたエピソードを紹介された。シスター笹川に現われた天使は101回の涙についてこう説明された。 安田神父は聖母が2000年前に十字架のもとで流した涙と20世紀後半に秋田の聖母像を通して再現された涙の本質は同じであり、それは「 共贖の苦しみの涙である」と結論づけられた。御子が十字架につけられるという耐え難きことに耐え、神の救いの計画に同意された聖母がシメオンの予言通り十字架のもとで涙を流されたことは単なるこの世の悲劇を通り越し、購い主の母としての最初の記念すべき出来事であった。この奉献行為に言及して、安田神父はモリヤの山の出来事について 考究される。神の要求に対して、サラがイザクの捧げに同意しなかったため、神のみ旨に従ったアブラハムの奉献も不完全なものであったが、カルワリオでは、聖母が母として御子の捧げに同意し、御子を失う苦しみを神に捧げたため、キリストと聖母の両者の同意が揃い、神の正義を満たす完全な奉献となった、と安田神父は神の神秘を解き明かされた。モリヤの出来事はカルワリオの予型として知られる。これに新しい神学的息吹を注ぎ込んだ安田神父のローマ講演は、終わった後も万雷の拍手が鳴りやまなかった。この名講演の詳細については、もっと多くの内容を紹介したいが、それだけで紙数が尽きてしまう。本誌読者の方にはそのエッセンスだけを簡単に紹介したが、ここに書かれていない内容については、是非、黙想していただきたい。 秋田の聖母像のモデルとなったアムステルダムの聖母は共贖者のドグマがいつの日か教皇によって宣言されることを予告された。金司教が聖母に抱く熱き思いも、それが多数の神学者の耳に届き、最終的に教会が聖母の第五のドグマの採決に踏み切ることになる前触れかもしれない。 ところで、金司教はカトリック教会がプロテスタントを刺激したくないあまり聖母に関する信仰表明において消極的になりつつあることを嘆いておられる。韓国における実例は他の国においても参考となろう。日本のカトリック教会もご他聞に漏れず、聖母信心が下火になっている。天使祝詞の祈りが誤訳されてからはその傾向がますます強まったように思えてならない。東京教区のT教会では、ある司祭の在任中、8年間で一度も聖母の歌が歌われることがなかった。こんなことが許されてよいわけがない。又、教会の聖母像を撤去したり、見えにくい所に移動させる教会も少なくない。たしかにプロテスタントへの配慮としては最高かもしれないが、カトリックがカトリックであるために、本来の精神を取り戻してほしいと願うのは私だけではないだろう。そのような意味において、聖母被昇天号に金司教の情熱的な文章が掲載されたのは実にタイムリーなことであった。本誌をご覧になっておられる司教方も金司教の情熱に負けぬほど強い決意でもって我が国の教会をリードしていただきたい。司教が懸命に取り組むことは、それが神のみ旨に適ってさえいれば、必ず信徒もそれに呼応して、素晴らしい成果を残すことができる。元来、信徒というものは司教を心から応援したいと願っているものである。しかし、司教が懸命におかしなことに取り組めば、教会内の秩序が乱れ、その失望から信徒の信仰は薄れてしまう。最後に、日本の教会を牽引する司教団に神の恵みが豊かに注がれることを祈り、筆を休めることにする。 |