スペイン旅行の雑記帳

朝 岡 昌 史

(「ヴァチカンの道」第42号 Dec.25.2003掲載)

生きる喜びを教えてくれたスペイン 

 熟年夫婦にとってこの度の旅行は体力勝負でした。
 夏も峠を越えた9月の末、早朝家を出て成田から魔の12時間。アムステルダムで乗り換え待ち2時間。ここで時計の針を8時間遅らせて更に2時間飛ぶ。目的地マドリッドに降りた時は体がフラフラです。
 スペインを語る時、人はしばしば「光と影」という枕詞を付けますが、私は到着早々「影」の部分に出会ってしまいました。空港のトイレの見事な汚れぶり、そして荷物を受け取る例のベルトコンベアが途中で故障し空しく30分待たされる。加えてツアーの一行20人中9人の荷物が行方不明というオマケ付き。
 ホテルへのバスの中で女性添乗員が武勇談を披露しました。この街は非常に治安が悪い。自分も最近ホテルの近くで後ろから何者かに首を絞められ、倒され顔を蹴られたが、カバンだけは必死に抱きかかえて放さなかった。皆さん、夜と早朝は決して外出しないように、と厳重に申し渡されました。
 バスがホテルに着くと、成る程、入り口まで10メートルの距離にガードマンが仁王立ちして私たちを守ってくれました。ホテルは4ツ星のふれ込みでしたがこの国の星の数はアテにしない方がいい。隣室のテレビの音が聞こえる。シャワーの調子が悪い。狭い。暗い。要するにひどくズボラなんだ、この国は。
 ベッドに入ったのは現地時間で夜の12時を回っていました。
 翌朝8時、マドリッド市内観光に出発。眠い目をこすりながらプラド美術館へ。
 僅か1時間で館内を駆け抜けました。無謀な!と腹を立ててはいけません。こんなのは序の口、このツアー、正味7日間に13都市と30数箇所の観光ポイントを見て回る、日本人好みのハードスケジュールです。
 

 現地のガイドさんは要領よくスペインの三大画家エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの部屋を案内してくれました。その途中ラファエロ、ボッチチェリ、アンジェリコ、ブリューゲルなど見覚えのある名画を横目で見ながら早足に通り過ぎて行くのはあまりに無念で涙が出ました。

 2日目のトレドはこの旅のハイライト。幸い天候も良く対岸の台地から眺めるこの街の展望は450年前、グレコが描いたトレドの景観そのままです。今、私がここを写生するなら、絵の具は70%の茶色、20%の灰色、10%の緑で充分でしょう。街の中は迷路のような小道がくねくねと、どこまでも続いていました。

 この街の主役はエル・グレコです。サント・トメ教会にある彼の代表作「オルガス伯の埋葬」は、見上げる程の大画面に時間を超越して旧約、新約の諸聖人が描かれている実に意味深長な作品です。
 スペインだけでなく、ヨーロッパ観光のメインは教会、修道院ですからキリスト教や聖書の基礎知識がないと上っ面をなでるだけで終わってしまう。特にロシア、ギリシャ、ブルガリアなどは東方教会に関する最低限度の勉強が必要です。私たちツアーの一行は20代30代の女性が大半、彼女たちは宝の山に入りながらそれにはあまり関心がなく、ブランド品の物色に余念ない人が多かったのは残念でなりませんでした。

 3日目。アビラへ行きました。今日の主役は聖テレサです。私たちが毎年、聖土曜日の夜諸聖人の連祷で「アビラの聖テレジア、我らのために祈り給え」と歌っているここが、あの聖女の生誕地だと思えば流石に感激です。
 街を取り囲む頑丈な城壁は11世紀にイスラム教徒の侵略を防ぐ為に造られました。この街は標高1,000メートルを越す内陸部の高地にあって、冬の寒さは零下10度を下る日も多いと聞きます。

 聖テレサは貴族の娘としてこの地で生を受け、12歳で母を失う。19歳の時アビラのカルメル会に入会。当時の修道院は裕福な家庭の子女の花嫁学校として利用されていましたから、中には女中を連れて寄宿している者も有ったほどです。

 高い理想を抱いて修道生活を志したテレサは、修道院の規律が弛緩し毎日が安逸に流れているのを見て苦悩します。39歳のある日、神秘的体験を期に修道院の刷新に乗り出しました。華美と怠惰に慣れた修道女たちは改革を妨害し、テレサに非難を浴びせました。
 その結果彼女は異端の容疑で宗教裁判にかけられ、投獄される。苦心の著作も燃やされてしまった。伝記によればテレサは病弱で3年間も床に伏したこともあり、その後も病に苦しめられていました。医学の無い時代のこと、テレサの病がなんであったか、看病した患者からの感染症なのか、寒さによる風邪か肺炎か知る由もないが、零下の厳冬に進んで素足を通したストレスが彼女の体を痛めつけていたのは確かでしょう。どんな迫害も恐れず改革に賭けたテレサの行動は命懸けでした。
 始めは彼女に抵抗していた修道女たちもこれを見て心を動かされ、次々に賛同者が現れる。8年後、教皇から跣足カルメル会創立の認可を受けた。十字架の聖ヨハネの援助もあって、彼女はアビラを中心に16の女子修道院を創立します。
 こうして観想修道会の霊性が世界中に拡がって行きました。
 聖テレサ修道院で聖人の遺品、直筆の書簡などを拝観しました。

 3日目の午後。セゴビアではローマの水道橋の高さに圧倒される。映画白雪姫のお城のモデルになった王城では年寄りの冷や水、170段の階段に挑戦。
 4日目は朝の暗いうちからバスで出発。ドン・キホーテの舞台とされるラマンチャの風車小屋はガッカリ観光地です。そこへ愛想のいいペドロおじさんがやって来て、大きな鍵をガチャガチャさせて小屋の扉を開くと中は土産物屋になっていた。
 その後コルドバを観光し、セビリアに移動。外は真夏の日差しです。どっと疲れがでてきました。食事が油っぽく、いやに塩辛くて年寄りの口に合いません。
 5日目。カルメンの故郷セビリア。国営の煙草工場がまだ残っていました。
 午後はロンダの闘牛場へ。以前はオプショナルツアーで闘牛観戦がありましたが日本人には人気が無くて取り止めになったそうな。私など自分がやって見たいくらいなんだが。ミハスを経由して深夜グラナダ着。

ロンダ市内にて

 6日目はグラナダ。ここアンダルシア地方は街の中に椰子の木が茂って南国ムードです。陽射しも強い。ギターの名曲で広く知られるアルハンブラ宮殿は凄い人出。フリの入場者は半日待ちだそうです。
 今まで拝観したキリスト教関連の建物は堂々たる石造りだったのにイスラム教のそれは何と繊細で、か細く、女性的であることか!
 スペインは8世紀頃からイスラム教徒に支配されていました。700年に亘る戦いの末キリスト教徒は彼らをイベリア半島から駆逐する。その歴史ゆえに古い建造物はイスラム文化の影響を残した独特の姿を持っていて、これが観光の目玉になっています。
 午後はアリカンテへ。海辺にそそり立つサンタ・バルバラ城へ登る。眼下に拡がる地中海は南国の海の青さでした。
 この街の忘れ得ぬ体験をお話しましょう。夕刻、一日の仕事を終えたガイドの小父さんがスケジュールにないサービスをしてくれました。連れて行かれた所はアリカンテのカテドラルです。正面の大きな扉を開けると丁度ミサの最中。頭上から突然降ってきたパイプオルガンの大音響が私を包みました。そのド迫力に体が痺れ足がすくんだ。祭壇も会衆も金色にキラキラ光って見えました。
 「見ろ!これが俺たちのスペインだ」。それは不信心でうわついた日本人客に対する、ガイドさんの無言のアピールでした。
 そこにスペイン男児の心意気を見ました。

 7日目。早朝から長駆バスを飛ばして、午後バルセロナに着く。ここはスペイン旅行のデザート的な街。聖家族教会は建て始めて既に120年、外壁の塑像は鳩の糞に汚れ、外壁は排気ガスにくすんでいる。一度クリーニングしたい思いです。
 4本の鐘塔が高々と聳えています。天邪鬼根性がむらむらとこみ上げてきた。エレベーターを使わず足で頂上を目指す。内壁にへばりつくように、幅80センチ足らずの細い螺旋階段が上へ上へと続く。内側に手摺りがない、恐怖の階段です。落ちたら死ぬ。降りてくる巨体外国人とすれ違う時は極限まで緊張しました。でも無事に戻れてよかった!日本なら当然立ち入り禁止です。

 8日目。午後から降りだした雨の中をモンセラート修道院へ。静かな山の霊場を想像していました、比叡山とか出羽三山のような。ところが行ってびっくり。登山電車が往来し、広い道路は綺麗に舗装され、超モダンなレストランやショッピングストアには煌々と明かりが灯っていました。修道院の中も現代風に整備されて、その点では非の打ち所が無い。
 しかし、違う。これはスペインではない。アンダルシア地方の駄菓子屋風のお店や、騒がしいBAR(居酒屋)や、小径の石畳が懐かしい。道理で黒いマリア様もつまらなそうなお顔をしていました。

 9日目の朝、バルセロナのカテドラルでやっとミサのフルコースに与かることができました。世界中から信者が集まっているらしく、同じ場面でも立つ人、座っている人、跪く人。ご聖体を口で、手で頂く人などいろいろでした。
 その日の午後私たちはバルセロナから帰国の途につきました。この1週間に断片的にではあれ、多くのスペイン人に接しました。ズボラだけれど楽天的、お節介だがお人好し、働くのは嫌いだが生活は十分エンジョイしている。そんなスペイン人が日本人を見たら何と言うでしょう。「日本人は自分の身を削るような競争をして世界の一流にのし上がった。しかし競争に勝てても人生の楽しみ方を知らない。何時もピリピリして不平ばかり言っている人種だ」と。
 外国から日本を眺めると自分の国がよく解ります。人生をどのように生き、どのように死ぬべきかも教えてくれる。海外旅行で得られる収穫の大きさは、とても文字では表しきれません。


本に書いてないスペイン事情

 ここで紹介したいのは、トレド、アビラなど最初の3日間を一緒に歩いてくださった現地女性ガイド寺岡さんのことです。旅行業界は総じてキリスト教関連の語彙に乏しく、「法王」には目を瞑るとしても、司教、神父を牧師さん、坊さん、カテドラルを大伽藍、大寺院など出鱈目がまかり通っている。しかし寺岡さんは教皇、司教、司祭など正確に使い分けていたので、もしやと思い尋ねてみたらやはりカトリック信者でした。夫君もカトリックで、マドリッド在住20年とか。この出会いは幸運でした。スペイン事情をいろいろ聞くことが出来ました。

 彼女はカトリック新聞で募集している巡礼旅行のガイドに指名される機会が多いそうですから、既に会っている方もいるでしょう。品の良い美人です。この時の彼女との対話をそのままここに書きましょう。以下は一問一答。

(問)昨日ファチマからお帰りになったそうですが。

(答)そうです。でも凄いですよ。バスの中でずーっとロザリオを唱え続けているグループもあります。私は度々先唱させられましたが、早いの遅いの、区切り方が悪いのとクレームをつけるコンダクターがいたりして、とても疲れます。

(問)ところでカトリック教会のスペインの若者に対する指導力は如何ですか?

(答)残念ながら全くありません。結婚式も市役所の中で済ますカップルが多くなりました。聞けば教会で挙式すると離婚が出来ないので、という恐るべき答が返ってきます。

(問)スペインは有数のカトリック教国、最近まで憲法に国教をカトリックとする条文があったと聞いています。しかしこの治安の悪さはどうしたことでしょう。

(答)19世紀以降、スペインの政治は目まぐるしい試行錯誤の連続でした。近年中道右派路線になると今度は自由放任がまかり通るようになった。治安の悪さは密入国者の増加が原因です。他に麻薬、同性愛、不倫、犯罪が横行しています。特に都市部がひどい。中高年者は今になって1975年まで続いたフランコ政権時代を懐かしんでいます。

(問)でもフランコ政権は独裁だったのでは?

(答)日本の人は独裁と聞くと顔をしかめますが外国人の反応と国内の評価は違います。凄惨な内戦の後、40年近くスペインに安定と繁栄をもたらしたことを多くの国民が認めています。当時は犯罪も少なく、深夜に女性が一人で歩いていても安全でした。

(問)日本は司祭の数が不足しています。東京では教会を整理統合して対処しようとしていますが、スペインにもそのような動きがありますか?

(答)ありません。修道者は減っていますが司祭の召命の数は以前と変わっていません。スペインでは司祭の社会的地位は高く地域の名士の一員になります。地方へ行けば信者は日曜日に週一度のおめかしをして教会に集まり、ミサが終わるとBARで酒を酌み交わし、男女それぞれがおしゃべりに花を咲かせます。これは昔から変わらない彼らの生活パターンです。

(問)しかし若者は習慣に捉われず自由に道を選択をしたいのでは?

(答)この国は義務教育で週1時間、宗教の時間が設けられています。小学校中学年になると初聖体ですが、クラスの全員がご聖体を受けるので、中の1人2人が受けないとなれば、あいつはなんだ、と言うことで仲間はずれにされてしまう。そこで普段は教会へ行かない夫婦もその時ばかりは周りに歩調を合わせて子供に初聖体を受けさせます。

(問)でもその子が家族を離れて自立すると教会から離れるケースが増える?

(答)そうですね。しかしスペインの教会は、中身は傷みかかっていますが、外側の容物(いれもの)は健在です。スペイン人の国民性や歴史を考えれば、私は教会の将来を悲観していません。


小教区再編成案を解剖すれば

 海外旅行に共通した悩みは飛行機の中の長い長い時間の過ごし方でしょう。私は以前、知人に貰ったまま放り出してあった「東京大司教区再編成問題に関する若干の意見書」という67ページの小冊子を鞄から出して膝に広げました。すると読むほどに目が冴えて眠気はすっ飛んでしまいました。
 2001年と02年にかけて東京の各小教区に2冊の文書が配布されました。それは岡田大司教様の「新しい一歩」、もうひとつは大司教に任命されたプロジェクトチームが製作した「福音的使命に生きる」と言う文書です。(以下 文書 という)それは日本カトリック教会の将来に危機感を抱いた大司教様たちが考え出した教会の大改革案でした。
 これに対し赤羽教会司牧評議会が正面から反論をぶつけてきました。それがこの小冊子です。(以下 評議会 という)評議会は大司教に敬意を表して、反対する、撤回せよ、など直裁的な表現を一切使わず、「私たちの考えが間違っているのでしょうか」「このように考えるのが正しいのではないでしょうか」と低姿勢。一面、慇懃無礼ではあります。
 しかし文書の内容を冷静に分析しています。教皇の御言葉、新教会法典、過去の公文書などを検索、引用しつつ文書の主張を一つひとつ論破する。舌鋒は極めて鋭い。評議会の有志は大したサムライ集団です。
 これは横綱と大関の大一番です、面白くなかろう筈がない。

 大司教様の改革案の骨子は二つです。
(一)現在74ある東京教区の小教区を20に減らす。
(二)それにより捻出された余剰司祭を、従来の司牧以外の外的活動に振り向ける。この大リストラの動機について文書は言う。

 今のカトリック教会の沈滞を挽回するために、今までの「掟や教義を中心とした信仰」から「ともに喜びをもって生きる信仰」に転換せよ、と。即ち「司牧は内向きでマイナス志向」そして「宣教は外向きでプラス志向」、故に教区をあげて「司牧より宣教に励もう」と提言するのです。
 文書には、司牧と宣教という2つの命題が対比的に扱われています。この二律背反の対立構造を基にした理論が、様々に表現を変えて繰り返されます。

 これに対し評議会は反論する。「私たちはNICE-1以来の司教団の一連の主張を詳細に検討した結果、そこに一貫して流れている或る前提に気が付きました。それは問題を常に二項対立の図式に組み立てようとする安易な発想です」。「私たちが驚いたのは[司牧]と [宣教]を対立する概念として取り扱っているメンタリティーの単純さです」と。

 司牧と宣教は対立するものでしょうか。力強い宣教は豊かな司牧で支えられます。両者はコインの裏表、どちらも大切です。対立ではなく相互補完関係にあると考えるべきではないでしょうか。

 評議会の突っ込みは鋭い。

 「NICE-1は日本の教会に良いものを沢山残しました。しかしNICE-2までは何とか続いたもののその後立ち消えになっている。司教団があれだけ熱を入れて計画していたのに僅か2回で霧散してしまったのは何故か。そもそも出発点に無理があったと考えざるを得ません」。
 本来、対立する筈のないものを無理矢理対立させて理屈づける手法に、大多数の信徒がついて行けなかったからです。
 ここで大事なことを言っておきます。私はこの文書の原本を読んでいません。しかし評議会の論議の進め方から総合的に判断して、ここに引用されている教会側の文章内容に、捏造や歪曲が加えられていないと読み取りました。で、このコラムにも評議会の引用文を使っています。


広げた風呂敷が絞まらないインテリの改革案

 次に、文書はリストラの具体策に触れて言う。「小教区の数を減らし、多くの司祭を主任司祭という立場から解放し彼らそれぞれの資質を生かした働きを可能にする」と。
 評議会は抗議する。

「解放する、この言葉を広辞苑で引いてみました。[束縛を解いて自由にする事]とありました。主任司祭に要求されるお仕事が[束縛]であったとは寡聞にして今まで知りませんでした。誠に不勉強でありました」。

 「司祭の仕事は多様化しているものの、雑用までの全てに司祭が責任を取る義務はありません。司祭の責任は信徒の霊的指導の範囲に留まるのです」。

 「司祭は司祭にしか許されていない権能を有するが故に尊い存在なのであります」。

 「多くの司祭の中には霊的指導以外の[資質]をお持ちの方がおられる事を存じておりますが、それらは司祭にとって全て余技に過ぎないと私たちは考えています」。

 評議会の結びの言葉は辛辣です。

 「司祭にしか出来ないこと、司祭がしなければならない事」を「解放されるべき束縛」と考えている方が「信徒がすべき事は沢山ある」等と言ったところで誰がその言葉を本気で受け取るとお考えでしょうか」。

 「今一度ご自分のお書きになった文章を、虚心に読み直してご覧になることを切にお勧めする次第です」。

 下町の言葉でいえば、顔を洗って出直して来い、か。


 ところで小教区削減によって生じた余剰司祭を、どんな部門に用いようと言うのか。肝心な事を文書は何も言っていません。評議会は面白いことを言う。「そこには私共が思いもつかない深謀遠慮があるのかも知れません」。と言うと、あの将軍様の策動?まさか。ではフリーメイソンの陰謀?ウーン、ちょっとキナ臭いかな。
 余剰司祭は結局フリーターという形になる。羊の牧者、秘蹟を司る祭司のイメージでなく、ジーパンをはいたボランティア、社会活動家という格好になります。
 そう、霧の向こうにおぼろげな姿が浮かんできました。

 司教団直属の団体であるカトリック正平協は、人権の旗を振りながらしきりに政治問題に介入し、共産党、社民党と同じ路線を歩んでいます。彼らを熱心にリードなさっているのは松浦補佐司教様、大塚司教様、池長、岡田大司教様などの方々です。フリーター司祭がどんな部門の社会活動に関わるにせよ、結局は司教様方の主導する政治運動に巻き込まれていくのは必然の成り行きです。
 私の推測ですが、改革案の最終目的はこれです。現在、修道会が司牧する大教会の豊富な資金を、大司教様の手中に置きたいのだ、と言ったら、シーッ、声が高い!と叱られますか?
 東京大司教区にある教会の内、3分の1強に当たる26教会は外国の修道会によって運営されています。それらはいずれも大教会です。財政が絡む、教会の複雑な統廃合を大司教様は如何に解決しようとなさるのか?
 評議会は呆れています。

 「2つの文書のどこを探しても、提示された計画をどのように具体化していくか、についての検証も立案もされていない。それどころか見通しさえ掲げられていないのは誠に驚くべき事でありました」。

 だから言ったではありませんか。本誌前号の私のコラムをお読み頂けたでしょうか。塩野七生さんはカエサルの暗殺事件を例に引いて、小教区再編成問題の欠陥を見事に言い当てています。

 「リーダーの資質としての見識は学問で得られるものではありません。(ブルータスには)カエサルを殺した後の計画など初めから頭になかった。いつの時代のインテリも同じ過ちを犯します。現代のどこが間違っているか、と言う批判はいくらでも話してくれる、鋭いことも言う。でも、そこから先の具体的提案には、ついぞ及んだ試しがない。聞いた事もない。それを可笑しいとすら感じない知的アンバランス。このインテリ特有のパターンは ・・・・(後略)

正義が勝つとは限らない改革のきびしさ

 聖テレサの改革については先に触れました。テレサに遅れること27年、アビラを中心に男子観想修道会の改革に生涯を捧げた、十字架の聖ヨハネの生涯も波乱万丈でした。折からルーテルに始まる宗教改革の波がスペインにも押し寄せていました。
 彼の刷新運動は上層部の憎悪と反発を招き、宗教裁判にかけられ、投獄される。その獄舎は畳半畳ほどの板の間で、換気は悪く昼間も真っ暗でした。過酷な獄中生活は冬を挟んで9ヶ月に及ぶ。手足の指は凍傷でちぎれた。食物はパンと水、時々小魚が与えられるだけ。毎金曜日の夜には大勢の修道士の前に引き出され激しい鞭が裸の上半身に打ち下ろされた。その傷は死ぬまで消えませんでした。
 出獄してから彼の活動は目覚しかった。彼は祈りの人でした。多くの著作を残し観想修道院を設立し、聖テレサの革新運動にも協力した。しかし輝く日々は長く続きませんでした。反対派の策謀で失脚し、僻地の修道院に移され、病苦のうちに殉教者に近い姿で49年の生涯を閉じる。
 聖ヨハネの短い一生は、常に死と向かい合った火花が飛び散るような毎日でした。

 アシジの聖フランシスコの場合。かれの生涯は世界中の人に広く知られていますが、ここでは聖人の隠れた一面を語りましょう。
 フランシスコが歴史に登場する13世紀初頭、教会は史上最大の世俗権勢を誇っていました。それ故に「主の家は傾いていた」のです。この時代、十指に及ぶ教会刷新グループが民衆の中から勃興します。改革派だった時の教皇インノセント3世は、彼らを体制の中に取り込むことによって、教会の浄化を推進しようとしました。
 しかし清貧主義者の使徒的活動は、高位聖職者たちの世俗利益に反します。認可されたグループは、体制からいびり出されるような形で異端の烙印を押され、いずれも悲惨な結末と共に消滅してしまいました。
 その後、枢機卿らの圧力により1215年の第4ラテラノ公会議は新しい修道会の設立を厳しく禁止する。将にその直前、インノセント3世はフランシスコの修道会を認可していました。
 彼は改革の最後のチャンスを名も無い托鉢集団に賭けたのです。教皇はその成果を見ることなく、翌年に逝去。その頃フランシスコ達は高位聖職者らの疑惑と憎しみの中で、あわやその存続さえ危ぶまれる崖っぷちに立たされていました。

 改革はいつの時代であれ、抵抗勢力との真剣勝負です。正義が勝つとは限らない。聖テレサ、聖ヨハネ、聖フランシスコ、いずれも命を神に預けていました。その体から発する生死を超越した気迫が反対派をも感化させました。
 改革に賭ける情熱は今も昔も変わらないでしょう。違うのは、聖人方が自己の回心から始めたのに対し、大司教様は先ず政治の仕組みを変えることから始めようとしています。その過程に霊性のレの字も感じられないのが不安です。教会の改革は終着点が「聖なる典礼」、「聖餐を中心とした共同体」でなければ、行う意味がありません。
 もうひとつの相違点は、大司教様が絶対的な安全地帯におられる、と言うことです。やんごとなき御かたには、下々の信徒の悩みがお解り戴けない。

 寺岡さんと別れる最後の晩、私たちがロビーで交わした会話を忘れることが出来ません。 

 聖地巡礼ツアーに参加した婦人たちが代わるがわる彼女に訴えかけるのは、決まって日本の女性がカトリックの信仰を守る事の困難さでした。或る婦人は日曜日のミサへ出かける前に、食事の支度は勿論、細心の準備をして家を抜け出すが、それが夫婦の間で深い溝になっている事。或る婦人は職場で自分がカトリックであることをひた隠しに隠している。知られれば疎外されるのが判っているから。

 また多くの婦人たちは言う。教会には自分が負っている悩みを話す場所がない。立派で偉い人ばかりが多くて自分には場違いではないかと悩んでいる。育児の問題や嫁姑の問題など、うっかり口にすることが出来ない雰囲気がある、と。

 本来、喜びであり生き甲斐であるべきカトリックの信仰が、日本に入ると何故苦痛や重荷になるのか。ヤンセニズム的な過去の信仰教育が主な原因ではないでしょうか。それを棚に上げて「掟や教義を中心とした信仰」をバッサリ斬り捨てる無責任な文書の姿勢に、私は強い不信感を抱きます。

 巡礼の婦人たちは日本の教会で癒されない屈折した思いを、外国の聖人に語りかけているのでしょう。でも巡礼に行ける人はまだいい。それも出来ず日常生活の泥沼の中で光を求めてもがいている人が私の周りに幾人もいる。これが現実です。
 この人たちの心に触れて福音の喜びを伝えるのは司牧の仕事です。難しい。しかし逃げることは許されない。主は「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい」。「私のもとに来る人を私は決して追い出さない」と言われました。だが大司教様の文書は、「司牧はマイナス志向」として、近づいてくる子羊たちを追い返そうとしています。癒しと慰めを必要とする多くの人々への暖かいまなざしが、そこには、無い。

 赤羽教会の意見書は、巻末に2002年8月にバチカンの聖職者聖省から出された教書、「小教区共同体の司牧者である司祭」の抄訳を載せています。その11項をここに転載してこのコラムを終わりましょう。


 「教会の歴史は、真に根源的な司牧に自分自身を捧げた人々の、驚くべき実例によって、芳しい香りを放ち続けています。それらの人々の中には、徹底した禁欲と深遠な霊的生活、或いは人々への霊的司牧の偉大な献身によって、ついに聖成の高みにまで到達した人々もいるのです」。

 「しかし、司祭としての堅い霊性に支えられないまま、様々な奉仕活動に手を出すことは、預言者的性格を欠いた、意味の無い活動へと急速に変質することでしょう」。

 「明らかに、司祭にとって神との一致の欠如は、第一に司牧的活動の低下から起こります。それは結果として深い愛の低下となってゆくのです」。

 

朝岡昌史の表紙へ

「ニセ平和主義者の仮面を剥がせ」
「カトリック正義と平和協議会」の異様
思考の断片 12

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