スペイン旅行の雑記帳
朝 岡 昌 史 (「ヴァチカンの道」第42号 Dec.25.2003掲載) |
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生きる喜びを教えてくれたスペイン 熟年夫婦にとってこの度の旅行は体力勝負でした。 |
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現地のガイドさんは要領よくスペインの三大画家エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの部屋を案内してくれました。その途中ラファエロ、ボッチチェリ、アンジェリコ、ブリューゲルなど見覚えのある名画を横目で見ながら早足に通り過ぎて行くのはあまりに無念で涙が出ました。 |
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2日目のトレドはこの旅のハイライト。幸い天候も良く対岸の台地から眺めるこの街の展望は450年前、グレコが描いたトレドの景観そのままです。今、私がここを写生するなら、絵の具は70%の茶色、20%の灰色、10%の緑で充分でしょう。街の中は迷路のような小道がくねくねと、どこまでも続いていました。 | |
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この街の主役はエル・グレコです。サント・トメ教会にある彼の代表作「オルガス伯の埋葬」は、見上げる程の大画面に時間を超越して旧約、新約の諸聖人が描かれている実に意味深長な作品です。 |
スペインだけでなく、ヨーロッパ観光のメインは教会、修道院ですからキリスト教や聖書の基礎知識がないと上っ面をなでるだけで終わってしまう。特にロシア、ギリシャ、ブルガリアなどは東方教会に関する最低限度の勉強が必要です。私たちツアーの一行は20代30代の女性が大半、彼女たちは宝の山に入りながらそれにはあまり関心がなく、ブランド品の物色に余念ない人が多かったのは残念でなりませんでした。 | |
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3日目。アビラへ行きました。今日の主役は聖テレサです。私たちが毎年、聖土曜日の夜諸聖人の連祷で「アビラの聖テレジア、我らのために祈り給え」と歌っているここが、あの聖女の生誕地だと思えば流石に感激です。 街を取り囲む頑丈な城壁は11世紀にイスラム教徒の侵略を防ぐ為に造られました。この街は標高1,000メートルを越す内陸部の高地にあって、冬の寒さは零下10度を下る日も多いと聞きます。 |
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聖テレサは貴族の娘としてこの地で生を受け、12歳で母を失う。19歳の時アビラのカルメル会に入会。当時の修道院は裕福な家庭の子女の花嫁学校として利用されていましたから、中には女中を連れて寄宿している者も有ったほどです。 |
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高い理想を抱いて修道生活を志したテレサは、修道院の規律が弛緩し毎日が安逸に流れているのを見て苦悩します。39歳のある日、神秘的体験を期に修道院の刷新に乗り出しました。華美と怠惰に慣れた修道女たちは改革を妨害し、テレサに非難を浴びせました。 その結果彼女は異端の容疑で宗教裁判にかけられ、投獄される。苦心の著作も燃やされてしまった。伝記によればテレサは病弱で3年間も床に伏したこともあり、その後も病に苦しめられていました。医学の無い時代のこと、テレサの病がなんであったか、看病した患者からの感染症なのか、寒さによる風邪か肺炎か知る由もないが、零下の厳冬に進んで素足を通したストレスが彼女の体を痛めつけていたのは確かでしょう。どんな迫害も恐れず改革に賭けたテレサの行動は命懸けでした。 始めは彼女に抵抗していた修道女たちもこれを見て心を動かされ、次々に賛同者が現れる。8年後、教皇から跣足カルメル会創立の認可を受けた。十字架の聖ヨハネの援助もあって、彼女はアビラを中心に16の女子修道院を創立します。 こうして観想修道会の霊性が世界中に拡がって行きました。 聖テレサ修道院で聖人の遺品、直筆の書簡などを拝観しました。 |
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3日目の午後。セゴビアではローマの水道橋の高さに圧倒される。映画白雪姫のお城のモデルになった王城では年寄りの冷や水、170段の階段に挑戦。 |
4日目は朝の暗いうちからバスで出発。ドン・キホーテの舞台とされるラマンチャの風車小屋はガッカリ観光地です。そこへ愛想のいいペドロおじさんがやって来て、大きな鍵をガチャガチャさせて小屋の扉を開くと中は土産物屋になっていた。 その後コルドバを観光し、セビリアに移動。外は真夏の日差しです。どっと疲れがでてきました。食事が油っぽく、いやに塩辛くて年寄りの口に合いません。 5日目。カルメンの故郷セビリア。国営の煙草工場がまだ残っていました。 午後はロンダの闘牛場へ。以前はオプショナルツアーで闘牛観戦がありましたが日本人には人気が無くて取り止めになったそうな。私など自分がやって見たいくらいなんだが。ミハスを経由して深夜グラナダ着。 |
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ロンダ市内にて |
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6日目はグラナダ。ここアンダルシア地方は街の中に椰子の木が茂って南国ムードです。陽射しも強い。ギターの名曲で広く知られるアルハンブラ宮殿は凄い人出。フリの入場者は半日待ちだそうです。 |
今まで拝観したキリスト教関連の建物は堂々たる石造りだったのにイスラム教のそれは何と繊細で、か細く、女性的であることか! スペインは8世紀頃からイスラム教徒に支配されていました。700年に亘る戦いの末キリスト教徒は彼らをイベリア半島から駆逐する。その歴史ゆえに古い建造物はイスラム文化の影響を残した独特の姿を持っていて、これが観光の目玉になっています。 午後はアリカンテへ。海辺にそそり立つサンタ・バルバラ城へ登る。眼下に拡がる地中海は南国の海の青さでした。 |
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この街の忘れ得ぬ体験をお話しましょう。夕刻、一日の仕事を終えたガイドの小父さんがスケジュールにないサービスをしてくれました。連れて行かれた所はアリカンテのカテドラルです。正面の大きな扉を開けると丁度ミサの最中。頭上から突然降ってきたパイプオルガンの大音響が私を包みました。そのド迫力に体が痺れ足がすくんだ。祭壇も会衆も金色にキラキラ光って見えました。 「見ろ!これが俺たちのスペインだ」。それは不信心でうわついた日本人客に対する、ガイドさんの無言のアピールでした。 そこにスペイン男児の心意気を見ました。 |
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7日目。早朝から長駆バスを飛ばして、午後バルセロナに着く。ここはスペイン旅行のデザート的な街。聖家族教会は建て始めて既に120年、外壁の塑像は鳩の糞に汚れ、外壁は排気ガスにくすんでいる。一度クリーニングしたい思いです。 4本の鐘塔が高々と聳えています。天邪鬼根性がむらむらとこみ上げてきた。エレベーターを使わず足で頂上を目指す。内壁にへばりつくように、幅80センチ足らずの細い螺旋階段が上へ上へと続く。内側に手摺りがない、恐怖の階段です。落ちたら死ぬ。降りてくる巨体外国人とすれ違う時は極限まで緊張しました。でも無事に戻れてよかった!日本なら当然立ち入り禁止です。 |
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8日目。午後から降りだした雨の中をモンセラート修道院へ。静かな山の霊場を想像していました、比叡山とか出羽三山のような。ところが行ってびっくり。登山電車が往来し、広い道路は綺麗に舗装され、超モダンなレストランやショッピングストアには煌々と明かりが灯っていました。修道院の中も現代風に整備されて、その点では非の打ち所が無い。 しかし、違う。これはスペインではない。アンダルシア地方の駄菓子屋風のお店や、騒がしいBAR(居酒屋)や、小径の石畳が懐かしい。道理で黒いマリア様もつまらなそうなお顔をしていました。 |
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9日目の朝、バルセロナのカテドラルでやっとミサのフルコースに与かることができました。世界中から信者が集まっているらしく、同じ場面でも立つ人、座っている人、跪く人。ご聖体を口で、手で頂く人などいろいろでした。 |
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(答)残念ながら全くありません。結婚式も市役所の中で済ますカップルが多くなりました。聞けば教会で挙式すると離婚が出来ないので、という恐るべき答が返ってきます。 |
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大司教様の改革案の骨子は二つです。 これに対し評議会は反論する。「私たちはNICE-1以来の司教団の一連の主張を詳細に検討した結果、そこに一貫して流れている或る前提に気が付きました。それは問題を常に二項対立の図式に組み立てようとする安易な発想です」。「私たちが驚いたのは[司牧]と [宣教]を対立する概念として取り扱っているメンタリティーの単純さです」と。 司牧と宣教は対立するものでしょうか。力強い宣教は豊かな司牧で支えられます。両者はコインの裏表、どちらも大切です。対立ではなく相互補完関係にあると考えるべきではないでしょうか。 評議会の突っ込みは鋭い。 「解放する、この言葉を広辞苑で引いてみました。[束縛を解いて自由にする事]とありました。主任司祭に要求されるお仕事が[束縛]であったとは寡聞にして今まで知りませんでした。誠に不勉強でありました」。 「司祭の仕事は多様化しているものの、雑用までの全てに司祭が責任を取る義務はありません。司祭の責任は信徒の霊的指導の範囲に留まるのです」。 「司祭は司祭にしか許されていない権能を有するが故に尊い存在なのであります」。 「多くの司祭の中には霊的指導以外の[資質]をお持ちの方がおられる事を存じておりますが、それらは司祭にとって全て余技に過ぎないと私たちは考えています」。 評議会の結びの言葉は辛辣です。 「司祭にしか出来ないこと、司祭がしなければならない事」を「解放されるべき束縛」と考えている方が「信徒がすべき事は沢山ある」等と言ったところで誰がその言葉を本気で受け取るとお考えでしょうか」。 「今一度ご自分のお書きになった文章を、虚心に読み直してご覧になることを切にお勧めする次第です」。 下町の言葉でいえば、顔を洗って出直して来い、か。
「2つの文書のどこを探しても、提示された計画をどのように具体化していくか、についての検証も立案もされていない。それどころか見通しさえ掲げられていないのは誠に驚くべき事でありました」。
だから言ったではありませんか。本誌前号の私のコラムをお読み頂けたでしょうか。塩野七生さんはカエサルの暗殺事件を例に引いて、小教区再編成問題の欠陥を見事に言い当てています。 |
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正義が勝つとは限らない改革のきびしさ
聖テレサの改革については先に触れました。テレサに遅れること27年、アビラを中心に男子観想修道会の改革に生涯を捧げた、十字架の聖ヨハネの生涯も波乱万丈でした。折からルーテルに始まる宗教改革の波がスペインにも押し寄せていました。
改革はいつの時代であれ、抵抗勢力との真剣勝負です。正義が勝つとは限らない。聖テレサ、聖ヨハネ、聖フランシスコ、いずれも命を神に預けていました。その体から発する生死を超越した気迫が反対派をも感化させました。 |
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寺岡さんと別れる最後の晩、私たちがロビーで交わした会話を忘れることが出来ません。 聖地巡礼ツアーに参加した婦人たちが代わるがわる彼女に訴えかけるのは、決まって日本の女性がカトリックの信仰を守る事の困難さでした。或る婦人は日曜日のミサへ出かける前に、食事の支度は勿論、細心の準備をして家を抜け出すが、それが夫婦の間で深い溝になっている事。或る婦人は職場で自分がカトリックであることをひた隠しに隠している。知られれば疎外されるのが判っているから。 また多くの婦人たちは言う。教会には自分が負っている悩みを話す場所がない。立派で偉い人ばかりが多くて自分には場違いではないかと悩んでいる。育児の問題や嫁姑の問題など、うっかり口にすることが出来ない雰囲気がある、と。 本来、喜びであり生き甲斐であるべきカトリックの信仰が、日本に入ると何故苦痛や重荷になるのか。ヤンセニズム的な過去の信仰教育が主な原因ではないでしょうか。それを棚に上げて「掟や教義を中心とした信仰」をバッサリ斬り捨てる無責任な文書の姿勢に、私は強い不信感を抱きます。
巡礼の婦人たちは日本の教会で癒されない屈折した思いを、外国の聖人に語りかけているのでしょう。でも巡礼に行ける人はまだいい。それも出来ず日常生活の泥沼の中で光を求めてもがいている人が私の周りに幾人もいる。これが現実です。 赤羽教会の意見書は、巻末に2002年8月にバチカンの聖職者聖省から出された教書、「小教区共同体の司牧者である司祭」の抄訳を載せています。その11項をここに転載してこのコラムを終わりましょう。
「しかし、司祭としての堅い霊性に支えられないまま、様々な奉仕活動に手を出すことは、預言者的性格を欠いた、意味の無い活動へと急速に変質することでしょう」。 「明らかに、司祭にとって神との一致の欠如は、第一に司牧的活動の低下から起こります。それは結果として深い愛の低下となってゆくのです」。
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