ローマ教皇物語

 

朝 岡 昌 史

「ヴァチカンの道」第34号より)
Apr.15.2001

ポーランド人教皇の誕生

   1978年、秋たけなわの10月、聖ペトロ広場を埋めた世界のジャーナリストたちがバチカン宮殿の屋根に立つ一本の煙突を見つめていた。その屋根の下では教皇選挙が行われている。待ちに待った白い煙が煙突から昇り、やがて新教皇の名が発表された。『ボイティワ』という名を聞いた時、彼らは新教皇がどこの国の人なのか理解できなかった。実に460年ぶりにイタリア人でない教皇の誕生である。ポーランド人のヨハネ・パウロ2世その人だった。
   当時ポーランドは共産政権の支配下にあり、ソ連の威光と圧政は永遠に続く宿命であるかのように思われていた。それを背景にしての出来事だった。
   ポーランド国内は興奮に包まれた。ワルシャワでは全ての教会の鐘が鳴り響いた。クリスマスと復活祭が一度にきたような騒ぎになった。人々は教会につめかけて大蝋燭を供え、そして祈った。ポーランドの国防相だったヤルゼルスキにとって大司教ボイティワは既に厄介な人物として知られていた。公の説教でマルクス主義の正当性を何度も否定していたからだ。彼はそのころ既に精神的レジスタンスの中心人物になっていた。
   西側世界のローマ教皇という首長を戴いてネットワーク化しているカトリック教徒はソ連圏では最も不穏な存在である。カトリックは自由世界と同義であり資本主義とも同義だった。ポーランドの共産政権は、だから新教皇の誕生がはらむただならぬリスクを予感した。
   カロル・ボイティワは1920年に古都クラクフから30キロほど離れた小さな町で生まれた。8才の時母を亡くした。中学高校時代から記憶力抜群の優等生で、ハンサムで美声を持ち芝居好きで演技力に秀で、女生徒にも人気があった。大学2年の時ナチスがポーランドを占領した。彼はレジスタンス運動に加わり、隠れて演劇活動を続けた。
   24才で神学生に、戦後1946年26才で神父になった。38才で司教、ピカピカのエリートだった。47才で枢機卿に任命され、58才の時圧倒的多数の得票で教皇に選出された。

   ヨハネ・パウロ2世は教皇として世界中の国々を訪れることを自分に課した。最初の公式訪問はメキシコだった。次の訪問国として早くもポーランドの名が挙げられた。ソ連のブレジネフは胸中穏やかではなかった。
   教皇はポーランドにやってきてアウシュビッツを訪れた。ここはカトリックの聖コルベ神父が他の囚人の身代わりとなって死んだ場所でもある。教皇は以前なんどもアウシュビッツに来ていたが、教皇として初めてこの地でキリスト教徒が犯した罪を謝った。ポーランドのカトリックにもユダヤ人迫害の歴史があったことを。これに対しユダヤ人から、一人の神父を列聖することでユダヤ人の犠牲を曖昧にし、世俗的妥協を図ることへの厳しい批判が起こった。しかしその声は国民の拍手の中で、さしたる重みを持たなかった。クラクフではかつてない100万人もの大群衆を前にして教皇は『冷戦は永遠に続く訳ではない。やがて聖霊がやってきて事態を解放するだろう』と述べた。群衆はこの勇気ある発言に勢いづいた。
   1979年ソ連のグロムイコ外相が早くもバチカンに教皇を訪ねて協力関係を申し出ていた。グロムイコは教皇のがっしりした体格に虚を突かれた。精神だけでなく肉体からもカリスマ性が放たれていた。教皇は人間に信教の自由は保証されなければならないと力説し、グロムイコはソ連では宗教で何の問題も起きていないと言い放った。しかし教皇は、ソ連のキリスト教徒が公職に就けないことをよく知っていた。

共産主義との戦い

    1980年、時のアメリカ大統領カーターは駐米バチカン大使トムコを通じて、東欧やウクライナなどに反共の書物を密かに送り始めた。偶々トムコが東欧チェコの司教だったことが幸いした。彼のもたらす情報網に乗ってこの作戦は順調に展開していった。
   翌年カーターはバチカンに赴き、人間の政治的、宗教的自由を守るプロパガンダ作戦について教皇と同意し合っていた。
   同じ年の7月、経済的困窮にあえぐポーランドで鉄道ストが起こり、瞬く間に全国の工場に広まった。東ドイツに常駐する50万人のソ連軍にとってポーランドの鉄道は冠動脈である。国内の緊張は高まった。
   8月14日、ワレサに率いられた労働組合『連帯』が海軍造船所を占拠した。それまで軍事的に制圧されていた近隣諸国のストでは労働者は大きな組織力を持っていなかったが、今回は違った。知識人と労働者と教会の三者がしっかりと手を組んでいた。政府は昇給を約束したが、ワレサは乗らなかった。自由化と政治犯の釈放などを条件に挙げ、腰を据えた『 連帯』の抵抗は長期化した。
   労働者が共産主義に反旗を翻したのだ。ワレサと仲間たちが祈っている姿が西側のテレビに映し出された。ワレサの襟元にはチェンストホバの黒い聖母のメダイがとめてあった。工場内のミサの背景に、軍旗のように高々と揚げられた黒い聖母の写真と教皇の肖像が並んで見えていた。教皇が既に、ソ連に介入自粛を求める手紙を送ったと信じて疑わぬ人びとも大勢いた。それは西側諸国の軍事力よりも効き目があるように思われた。

   国境では戦車隊を先陣とするソ連陸軍の大部隊が侵攻の命令を待って布陣していた。ブレジネフはポーランドが反乱の状態にあると見なした。ソ連の代表がバチカンの代表に会見を求めてきた。もし『 連帯』の動きがソ連の統治に重大なリスクを与えるなら軍事介入すると申し渡された。
   その頃『連帯』にはカトリックだけでなく、ユダヤ人も無神論者も共産党員までも含まれていた。ポーランド人教皇は、今やワレサと共にナショナリズムのシンボルとして国民に広く受け入れられていた。
   翌81年の1月、ワレサはバチカンにやってきた。ソ連KGBはイタリア共産党に連絡をとって彼と教皇の会談を中止させようとした。しかし時の勢いは止められなかった。ローマに着いた一行はイタリア共産党員にさえ熱狂的に迎えられた。教皇のミサにあずかり、会談を果たしたワレサは『息子が父に会いに来たのだ』と語った。教皇は巧みな弁舌を使ってソ連を直接刺激することなく、しかしはっきりと労働者達の権利を擁護することを宣言した。
   国境のソ連軍は遂に動かなかった。

   ひとつのことが成就する時は、いくつかの幸運が重なるものだ。
   1981年レーガンがアメリカ大統領の座に就いた。レーガンはこの教皇が世界を変えるのを手助けしてくれるという確信を持っていた。彼はアイルランド系のカトリックの父とプロテスタントの母との間に生まれている。レーガンはカトリックの人びとへの信頼感を隠さなかった。しかも、政権を把握した当時、政府の首脳部には例外的に多数のカトリック信徒が集まっていた。
   かつてカトリックのケネディが宗教的コメントを敢えて避けてきたのとは対照的に、レーガン達は共産主義が霊的な悪を体現しているという神学的見解すらを共有していた。彼らはソ連を『悪の帝国』と呼んではばからなかった。
   レーガンはポーランド問題を対外政策の重点目標に据えた。単にソ連の軍事介入を阻止するだけでなく、情報操作によってポーランドを一気に民主化させ、共産圏の一角を崩すチャンスが到来したと見たのだ。アメリカはポーランドのレジスタンスに積極的な物資援助を開始した。しかしそれだけでは不足である。それはこの国に大きな影響力を持つ教皇の助けがどうしても必要だった。
   この年の2月、教皇はブレジネフに手紙を送った。もしソ連の戦車がポーランドに侵入すれば自ら戦車と自国民の間に立ちはだかるつもりだと言った。
   3月、ポーランドの何千万人もの労働者がゼネストを繰り広げた。緊張はピークに達した。
   3月30日にレーガンがリムジンに乗り込もうとしたところを狙撃された。肺に入った弾丸は心臓から2cmと離れていないところで止まった。彼は奇跡的に助かった。バチカンでこのニュースを聞いた教皇は、その場でレーガンの為に祈った。
   アメリカのCIAはソ連の軍事力を分析していたが、ポーランド人の心情の襞やソ連政府の微妙な力関係を掴むにはバチカンの情報網の方が卓越していた。或る日CIAは教皇の知らなかった情報をもたらした。イタリア労働者連合のスクリチオロ委員長が実はブルガリア共産党のスパイだというのだ。彼は『連帯』の組織作りに協力し物資の援助もしていた人物である。バチカンにいる教皇の身も、もはや安全ではない。


暗殺未遂事件

   1981年5月13日の午後、レーガン狙撃から1ヶ月半後、教皇は5時に始まる一般信徒の謁見のためにオープンカーで聖ペトロ広場をゆっくり移動していた。鋭い銃声がして広場の鳩が一斉に舞い上がった。6メートルの近距離から発射されたブローイング9ミリの拳銃の弾丸は2発とも教皇に命中した。秘書にもたれかかった教皇の白衣には血の色が見えなかった。『どこですか』『腹だ』『痛いですか』『ああ』短い言葉がかわされた。8分後に病院に運び込まれた。
   手術前に急いで終油の秘蹟が執り行われた。意識が遠のいた。血圧は下がり脈が弱った。手術は6時間に及んだ。銃弾は奇跡的に腹部大動脈を外れていたが、それでも60%もの血液が内出血で失われていた。大腸が22cm切除され、腹腔が洗われ、腸瘻造設術が施された。故郷クラクフでは3000人が回復を祈る野外ミサに参加した。
   教皇は一命を取り留めた。体内から取り出された一つの弾丸はポルトガルに運ばれ教皇自らの手でファチマの聖母像の冠に差し込まれた。もう一つの弾丸で穴を穿たれた布バンドは後日故郷の黒い聖母に捧げられる。
   暗殺者の背後にはブルガリアの諜報局が係わっていたが、その向こうにはソ連の影が見え隠れしていた。4日後に教皇は病床からコメントを出して狙撃者を赦した。

   偶々同じ日にレーガン大統領はインディアナのカトリック大学で次のように語った。『西洋は共産主義をせき止められないだろうが、共産主義を越えるだろう。共産主義は人類の歴史の不思議な、悲しい一章として片隅に追いやられるだろう』『西洋にとって、アメリカにとって我々の文明、我々の伝統、我々の価値観は単なるうわべだけの顔ではないということを、今や世界に示す時が来た』。レーガンの顔はまるで宗教者のようだった。レーガンにも教皇と同様、若い頃芝居で鍛えた表現力があったのは言うまでもない。
   81年12月、ポーランド政府は遂に戒厳令を発令した。折しも『連帯』が大々的なデモを予定していたところである。戒厳令を発表するヤルゼルスキ首相の声明は、ショパンの英雄ポロネーズの演奏と替わるがわるに何度も繰り返して放送された。
   ワレサを始めとする指導者は次々に逮捕された。『連帯』のリーダーが表舞台から姿を消した今、教皇は自らポーランド解放の旗印であることを宣言せねばならない。早速ヤルゼルスキに手紙を書いた。ヤルゼルスキも若い時にカトリックの教育を受けた人間だ。彼は信仰を失ってはいない、いつか必ず教会に戻ってくるはずだと教皇は信じていた。
   戒厳令直後、西側諸国はソ連とポーランドに対して経済封鎖を断行した。民衆はインフレと食糧不足に苦しみ、生活条件は最悪となった。教皇は戒厳令を弾劾し、それをラジオ・バチカンでポーランドに流した。CIAが電波をバチカンに提供していた。
   82年6月、レーガンがバチカンにやってきた。通訳なしの50分の会談で教皇と大統領はソ連の崩壊が戦略的にではなく、霊的にも避けがたいことを互いに確認した。『連帯』は堅牢な鉄のカーテンに初めて現れた亀裂だった。アメリカはポーランドの地下運動を物質的に支え続け、教皇は精神的に支え続けるだろう。共に狙撃され、共に神によって救われた二人は東欧の運命を変える使命感のもとに結束した。ヨーロッパはキリストの名において一つであるべきで、もともとロシアもキリスト教国であった。ヤルタ協定による東西ヨーロッパの分裂は人為的なものに過ぎない。キリスト教には2000年の歴史があるべきだった。
   83年6月、教皇は再度故国の土を踏むことになる。戒厳令下の軍事政権はカトリック教会がこの温情ある措置を理解して、反共を煽ることなく宗教活動だけに専念してくれれば良いという期待をこめた取引だった。
   しかし教皇は何も変わっていなかった。政府に向かって基本的人権の回復を強く迫った。公のスピーチの中で『連帯』については触れないようにと念を押されていたが、『普通名詞』として連帯という言葉が発せられる度に歓声が湧き起こった。チェンストホバの修道院の前の草原で100万人の民衆を前にした教皇は、ポーランド国民に希望を与えて下さいと祈り、弾丸に貫かれた帯を黒い聖母に捧げた時100万人の眼は釘付けになった。人びとは酔った。垂れ幕を先頭に何万人もが『教皇が我等と共にいる、神が我等と共にいる』と連呼しながら行進した。教皇は将に主役だった。

   同年11月ブレジネフが死んだ。後を継いだアンドロポフはヤルゼルスキに対してポーランドがカトリック教会に譲歩し過ぎたこと、その所為で今やカトリックが社会主義体制に対する脅威になっていることを激しく叱責した。だが1年半も経たない内にアンドロポフも死んでしまった。その後を継いだチェルネンコも1年で死んだ。
   その次に書記長となったゴルバチョフは4月にポーランドに来てヤルゼルスキと5時間に亙って語り合った。ヤルゼルスキはこの国でカトリック教会がどんなに影響力を持っているかを力説した。また教会によってポーランドが西側世界と歴史的にいかに繋がっているかを説明した。ゴルバチョフはその席上、東西共存のための改革の可能性と共産圏における信教の自由の可能性を示唆した。ソ連の風は確実に変わっていた。
   87年1月、ヤルゼルスキが初めてバチカンにやってきた。教皇との会談の中で彼はポーランド共産党が国民の支持を受けていないことを認め、経済回復のために教会の助けを求めた。ソ連によって任命されたヤルゼルスキ首相がソ連を見限ったのだ。ソ連は益々孤立した。
   2月、教皇の要請を受けた西側諸国は経済封鎖を解除した。戒厳令も解かれ『連帯』は合法化されて再び歴史の表に出た。
   1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。12月、ゴルバチョフが自らバチカンを訪れた。70年以上にわたって悪魔だともカトリックの天敵だとも見做されていたクレムリンのトップを一目見ようとバチカン中の枢機卿や司教たちは仕事の手を止めて窓から身を乗り出し、赤い旗をなびかせたゴルバチョフのリムジンを見つめた。


勝利の光芒が消えて

   ローマ教皇とソ連共産党書記長は二人のスラブ人として向かい合った。
   東欧をめぐる戦いは既に勝負がついていた。二人は旧知の如く会談は打ち解けて進んだ。東欧諸国にもし民主主義と信教の自由が保証されるなら、教皇には放逸に流れる西欧やアメリカよりも、質実剛健な東欧諸国の方が彼の感性に適っていた。
   教皇は過去8年、ポーランド解放のためにはアメリカの資金が必要だったし、外国訪問の際もアメリカからもらえる情報は有用だった。だからこそ軍備の拡張に熱心だったレーガンを今まで一度も批判しなかったが、ここにきてアメリカの物質主義やモラルの混乱はスラブ人である教皇にとってもともと気に入らないものだった。
   ゴルバチョフはゴルバチョフで、国内の改革を成功させるために同じスラブ人であり、国際的に絶大な権威を持つ教皇の後ろ盾を必要としていた。今まで圧迫してきた国内の東方正教会の権威は全く頼りにならなかった。ゴルバチョフは教皇にぜひソ連に来て下さいと申し出た。
   2年後の1991年、遂にソ連は崩壊した。腹心エリツィンらのクーデターで腐りきった共産政権はあえなく倒れた。
   その日、赤の広場のレーニン廟の前に誰かが聖母像を置いた。1917年にロシアの回心を予言したという聖母、教皇の命を暗殺から守ったという、あのファチマの聖母像だった。
   共産圏が崩壊していくにつれて、教皇の国際政治における影響力は傾いていった。91年の湾岸戦争においてアメリカのブッシュ大統領は教皇の声明を無視した。
   6月に故国ポーランドを訪れた教皇は、前年大統領に選出されたワレサに丁重に迎えられたが民衆はもう熱狂しなかった。聖堂の建設や補修は経済に苦しむ国民の目には壮大な無駄と映ったし、メディアを通してモラルを押しつけてくるのも迷惑がった。ソ連時代の中絶法も廃止されてしまい、国民は教会を警戒し始めた。
   教皇は、中絶はホロコーストに等しい罪悪であると語ってユダヤ人たちの激憤をかった。教皇はポーランドが鉄のカーテンの向こうにあったときにこそ、カトリックを旗印に西欧のアイデンティティを守ろうとしたが、一旦自由を獲得すればポーランドがヨーロッパ先進国の悪徳に染まるのは望むところではなかった。自由とデモクラシーの象徴であるヨーロッパは、今や悪の象徴にすら見えた。ポーランドは理想のキリスト教国となるべきであった。
   それなのにポーランド国民は西欧の自由に目を奪われて、カトリック教会に背を向け始めた。教会や信仰を捨てた訳ではない。しかし、国民の95%がカトリックだと自称しながら、69%が教皇の意である中絶禁止に反対して何の矛盾も感じなかった。人の心は移ろい易く吹く風のように絶えず変わる。ポーランド国民が早々西側先進国のように振る舞い始めたことは、教皇の心と体に重いストレスを背負わせた。
   カトリックが過半数を占めるフランスなどでは、すでに教皇が何と言おうと人びとは良心の痛みも迷いもないままに自由に避妊を実行している。フランスの司教会議は社会の実情に合わせるという名目で公に避妊具の使用を認める声明を出していた。
   ドイツでは避妊についての教皇の言葉を真摯に受け止めているのはカトリック人口の16%にしか過ぎない。コール首相も教皇に対して正式に見直しを求めた。
   自由と放縦とは異なると力説しても民衆の心は掴めず、教皇は共産主義政権下での国家と教会の蜜月時代が終わったことを思い知らされた。


教皇の旗の下に集まろう

   それでも教皇は精力的に外国訪問を続けた。彼がいつも歓迎されたとは限らない。むしろ緊張をはらんでいた。政治的に問題を抱えた国に行っては歯に衣を着せずに正論を吐いたので、煙たがられたり恐れられたりしていた。ニカラグアでは出迎えた独裁者の大統領を跪まずかせて大衆の面前で非難したことさえもある。
   パキスタンとフランスでは時限爆弾で暗殺されそうになった。しかし教皇は、いつも自分の運命は神の手の中にあると言って、決して恐れることはなかった。
   85年のオランダ訪問の際には、ユトレヒトで何千人ものパンクファッションの若者やアナーキストや同性愛者が教皇を取り囲み、権威主義を批判して抗議デモを繰り広げた。
   チリのサンチアゴでは何万人もの若者たちを前に『君たちは富の崇拝を拒絶するか』『はい』『権力の崇拝を拒絶するか』『はい』のやりとりの後で『セックスの崇拝を拒絶するか』の問いかけに若者たちは一斉に『いいえ』と叫んだ。それでも教皇は微笑みを絶やさなかった。
   ベルギーの大学ではポーランド系の女子学生が立って、避妊具の禁止や解放の神学を否定した教会の姿勢を面と向かって非難した。教皇は彼女の頭を抱いて接吻した。

   とは言え、共産圏の崩壊で東欧とロシアがどっとキリスト教文化圏に戻ってきた。新世紀に向かって東西二つの教会は真の和解と協調を果たさねばならない。またユダヤ教イスラム教に対し、キリスト教は『アブラハムの宗教』という共通のルーツを手がかりに共存を目指そうとする意識をはっきり持ちつつある。
   しかし、これらの果実と引換にカトリック教会は今まで冷戦の陰に隠れていた厄介な諸問題を一挙に抱え込むことになった。キリスト教国の旧植民地であった第三世界の貧困とエイズ対策、そしてユダヤとイスラムの確執には未だ解決の糸口さえ掴めていない。
   教会の内部を見れば保守派と改革派に二分する多くの問題が発生している。例えば聖体におけるキリスト現存に係わる様々な異説の抬頭、典礼の軽視と混乱、他宗教への評価の問題、聖職者のモラルの弛緩、中絶論議の難航、同性愛問題、フリーメイソン暗躍の噂、そして折しも枢機卿らの教皇への引退勧告がマスコミで取り沙汰されている。
   だが80才を越えた教皇には、もはやこれらの問題に取り組む時間も力も残されてはいない。
   過酷なスケジュールのためか、教皇の健康は狙撃事件以来回復することなく、殊に94年の浴室での骨折事故後急速に衰えを見せた。パーキンソン病による手の震えや言語障害、歩行や階段の上り下りにも苦労する姿は正視するに耐えない。そのうえ保守頑迷と批判され揶揄される。しかし周囲になんと言われようと彼は倒れるまで教皇の座に留まり正論を叫び続けるだろう。愛し合え、赦せ、武器を棄てよ、戦いを止めろ。それが理想論だと分かっていても年老いた教皇の声を聞くと、人は日々の生活で失いつつあるものにふと気付いてその声の方を振り向かずにはいられない。教皇の痛ましい姿や言葉に接するとカトリックでない人までが信仰の力を畏敬する。

   諸氏は教皇と価値観を共有し『バチカンの道』の旗印の下に集まった。持てるタレントの大きさは比較にもならない。しかし正論を語ることなら誰にでもできよう。いま人は生きる規範を見失っている。そこから様々な社会悪が吹き出している。
   熟慮しつつ、祈りつつ、言うべきときに言い、行うべき時に行う。その機会は誰にでも常に訪れる。人は利口に生きなくても良い。煙たがられ、迷惑がられても良い。世の光になろう。
   ヨハネ・パウロ二世が病に苦しみ、旧弊だと言われ、しかもこれら全てを甘んじて受け入れながら、なお理想に立ち向かう姿は私たちに大きな力と希望を与えてくれる。
   社会を聖化する波動は、その声の彼方からやってくるに違いない。

参考資料:創元社 ローマ教皇歴代誌・竹下節子 ローマ法王・LHPSニュース


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